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アメリカの公教育史 The Teacher Wars: A History of America’s Most Embattled Profession by Dana Goldstein

アマゾンのおすすめにThe Prize: Who's in Charge of America's Schools?という本がありました。フェイスブックの創始者で大金持ちになったザッカーバーグという人が、全米でもっとも貧乏な地域の学校に1億ドル(自治体拠出分を合わせて2億ドル)もの慈善事業を行った経緯を追ったもののようです。面白そうだったのですが、よく考えるとアメリカの公教育について、あまり成功していないようだという評判以外、私はほとんど何も知りません。そこで表題の本を読んでみることにしました。

アメリカの開拓時代、西へ西へと生活圏を広げていく開拓民の子供達に対する教育はないも同然でした。教師は不足していますし、州の予算も潤沢ではありません。そこで女性の力を活用しようという運動が起こります。昔のことですから、女性の就ける仕事は限られており、結婚以外に女性の選択肢がほとんどなかった時代の話です。夫や家族に奉仕する以外にやりがいを求めたり、宗教的使命感に燃えた女性は教育者として適任だとされ、自治体も当時男性に比べて給与の安い女性に教師になってもらうことは予算の上でも望ましいと考えました。かくして短期間の教師養成教育を受けた女性教師がアメリカ各地に赴任することとなります。

この辺りの話は日本と比較すると大きく違っていることが判ります。不勉強を承知で書かせて頂くなら、明治維新以後、日本の目標は欧米へ追いつくことでした。富国強兵、国民国家とそれを担う国民の養成は大きなテーマであり、教育には力を入れました。教師の養成に師範学校を作り、何をどう教えるかには常に国家が関与しました。教師はまた、地域においてはとても偉い人でした。校長ともなれば、地元の名士です。給与も地域の水準からすれば決して安くはありませんでした。

ですが、アメリカでは公教育の学校の先生は当時社会的な地位の低かった女性の仕事と見なされる面があって、教師は必ずしも尊敬されていませんでした。教員養成用の教育も数ヶ月ですし、そもそものところ良家の子供達は私立の寄宿学校に行くものなので、公教育の学校は貧しい家庭の子供達に基本的な読み書きを教えるところという扱いだったのです。

時代は下り南北戦争後、表向きには解放された黒人の子供達と白人の中流家庭の子供達の教育上の達成度の差が大きな問題になり、これはこの後も移民の流入が続くアメリカの中で移民の多く住む地域や貧乏な地域と白人地域のギャップをどうやって埋めていくかという問題として現在まで続いています。赤狩り公民権運動など政治的な激動の中で、公教育の教師は大変影響を受けやすい職業でもありました。教師の人種、個人的信条や活動によって、すぐに首にされてしまうような状況が続いたので、組合による交渉で在職権も確保できたり、教師の経済的な待遇は徐々に改善されていきます。が、何をどう教えるかということについては教師の個人的な裁量に任される部分が大きくありました。貧しい地域では、より高度な教育よりも規律正しい生活、親が仕事から帰ってくるまで学校が生徒を預かってくれる保育所のような役割が期待されたこともありました。生徒のためにどういう教育をするのかで、一流校を目指して古典や数学を重視するのか、職業教育を重視するのかで論争が起こったりもしますが、この状況は20世紀後半になって一変します。

産業化が進んだ結果だと思うのですが、優秀な労働力を求める産業界から公教育への改善要求が強くなります。レーガン大統領時代の「危機に立つ国家」という大きな影響力をもった報告書なども出され、当時流行っていた従業員を点数により評価する人事制度をモデルに、公教育へもテスト重視の風潮が公教育へ持ち込まれます(それ以前にも教員の評価制度はあったものの評価基準が主観的過ぎたり、いたずらに事務作業が増えたりでうまくいっていませんでした)。また教員養成の主流は大学での教員養成課程に移っていましたが、大学の成績の良くなかった層が教員となっていました。しかも教員の社会的ステータスの低さや教育環境の悪さなどから離職者も目立ち、教員の不足、特に質の良い教員の不足も問題となります。

そこで民間主導でTeach for Americaという、一流校の卒業生を対象に2ヶ月程度の研修期間によって仮の教員免許を発行し、取りあえず2年間公立の学校に派遣して教師をやってもらおうというプログラムが出来る一方で、連邦政府としては生徒のテストの成績を上げることが出来る教師には成果給を出し、上げられなかった教師には指導や停職、または学校そのものの再編までしてしまおうということになりました。オバマ大統領に至っては、その政策Race to the Topの目的の一つは無能教師を辞めさせることだと強調したこともあるほどです(公教育においては州政府や学区に権限があります。連邦政府としては連邦政府の方針に従ってくれる州政府には補助金を出すという形で連邦政府の政策を実施するということになります。ただ、平均して公立校の予算の10数%が連邦からというように連邦政府の影響は決定的ではありません)。

「いかなる定量的な社会指標でも、それが社会的な意思決定の場でより多く用いられるほど、その指標は退廃への圧力を受けやすくなり、その指標が監視するはずの社会的プロセスを歪曲し、堕落させがちになる」(訳文は「テストと公教育」http://www.p.u-tokyo.ac.jp/sokutei/pdf/2005_02/p215-254.pdfより)というキャンベルの法則という格言があるそうですが、テストの結果が教員や校長、学区長のボーナスや進退、学校の再編まで左右することになったこどで、まさに歪曲と堕落、カンニングが横行します。

テストは当初英語と数学で行われたので、美術や音楽の先生に協力してもらって実技を減らし、鑑賞文を書かせるとかで実質英語の授業にしてテスト対策に当ててみたり、テスト当日には出来の宜しくない生徒と良く出来る子を並べて配置してみたり(意味は判りますよね)、もっと直接的に回答後の生徒の答案の改竄までが行われたりしました。総額58万ドルものボーナスを貰った監督者が組織的なカンニングを主導していたこともあります。

また、英語や数学の教師だけが生徒のテストの結果で評価され、美術や音楽の教師は学校ごと自分の教えている教科とは関係なく評価されてしまうのは不公平だということで、美術や音楽にもペーパーテストが導入されるようになり、実技や鑑賞の時間が短くなります。教えているほうにも面白くないので離職率も上がります。

良くないことが起こる反面、テストの結果が蓄積されることでどうやったらテストの結果を上げられるのか、どういう教師がテストの成績を上げられるのかについて統計的な研究が進みます。良い教師の平均像は、生徒に対して高い期待を持って接し、生徒と同じ人種で30歳以上、子供を持つ親であり大学を出てから数年の教師以外の労働経験を持ち、生徒と同じ地域に住んで地域の実情を良く知っている、といったものです。科目に対する深い知識は持っていても教師の学歴はあまり関係がない。大学の教職課程以外の教員育成プログラムの出身でも生徒の習熟度に差は出ないらしく、むしろ教師の出身階層からすると、教師という職業が出世と見なされるような低めの出身階層であることも重要とか。親戚や周りが弁護士や会計士、企業の経営者や重役ばかりのところで公立学校の教師をやるのはモチベーションが下がるらしいです。成果給については成績の向上とあまり相関がないようで、ボーナスが付くからといってやり方が変えられるわけでもなく、教師は現状出来るだけのことをしているとのことです。

教え方についても一方的に講義してプリントをやらせるよりも生徒に質問するほうが有効で、しかも直接的な知識を問うよりも、レベルの高い考えさせるような質問の方がいいらしいことも判ってきて、そういうスタイルが流行ります(教育関係の一般書の書評には、この教授法への批判がありました。基本的な知識の欠如したわりに自分の意見だけには達者な生徒を量産していて、おかげで大学では高校の範囲の復習にかなりの時間を割く羽目になるらしいです)。例に挙がっていたのは「ヒトラーは何年にナチ政権を樹立しましたか?」と問う代わりに「ヒトラーが政権を取れたのは当時のドイツが社会的政治的経済的にどのような状況にあったからですか?どのような要因があなたは重要だと考えますか?それはなぜですか?」みたいな質問をするというやり方でした。確かにこれはきちんと答えられれば本一冊にもなる代わりに、適当にイメージだけで答えることも出来る設問です。

 テストによる結果で上から評価されることに反発した教師側も教師相互の評価を始め、人事評定に加味することを求めるようになります。アメリカの学校では「教室内の自治」が重視されて、授業中のクラス運営は教師に一任されることが多いのですが、特に新しく先生になった人は生徒を授業に集中させることに苦労します。荒れた地域の学校だと、どうしても授業にならないこともあって生徒の成績も上がらない。だからこそ教師の離職率の高さもより問題になります。ある程度ベテランになるとうまくやれるのですが、そうなるまでは各自の努力に任される面がありました。教師相互の評価が行われるようになると、お互いが授業で何をやっているのか、観察するようになり、授業の研究も進むようになります。評価の低かった教師にも指導役の教師がつくようになります。この辺りは、集団的な授業研究の進んでいる日本とは大きく違うところだと言及がありました。

先に書いたTeach for Americaの先生はほとんどが始めて教室運営をすることになるので、その弱点をカバーするために「No Excuses(言い訳無用)」という規律を重視した教室運営をすることが多いともありました。生徒に対する期待も高く、小学生の授業風景で「君達が勉強するのは何のためだ?」「大学のため!」なんていうのは日本の中学受験の風景を思わせます。

 制度面ではさらに、公募型の実験校という感じでチャータースクールというのが出来ました。地域の親や活動家などが申請することで学校が作れます。資金は主に自治体からですが、慈善事業資金も受け入れます。カリキュラムも申請目的に沿っていれば公立校の枠組みに縛られません。一見良さそうにも見えますが、やる気のある子供をチャータースクールが独占してしまって、普通の公立学校が余計に荒廃するとか、特定人種に生徒が偏り人種隔離を進めてしまうとかの批判もあります。教師に対する要求も過大でとにかく休みもなければ、代わりの教師がいないので病気で休むこともできないとか、働く側にとっても、つらい側面があるのだそうです。チャータースクールを営利目的で運営する会社も現れました。

教師なりたての一年目に教室運営で苦闘するという問題に対応するためurban teacher residencyという民間のプログラムもあらわれました。最初の教師養成プログラムの中にベテランの教師の指導付きで給与を貰いながら実地で教師の実務がどのようなものか学べます。そのかわりというか、実際赴任してから4年以内に辞めてしまうと罰金を払わなければならないのだとか。導入部分に力を入れた成果なのか、4年を越えても働き続けてくれる教師が多いことが特徴なのだそうです。

教師の能力ばかりに矛先が向きがちではありますが、生徒の達成度は学校外の要因に大きく左右されて、教師の影響は7%くらいの寄与だとも書いてありました。ただ、一部の最上級の教師はわずかですが統計上有意な生涯収入の差(1.3%)をもたらすことが出来るのだとか。生涯収入向上の例には中退率が下がるとか、10代での妊娠率が下がるとかが挙がっているので、どういう地域で統計を取ったのがよく判ります。中退率ついでですが、小学3年生までで読む能力で劣ると有意に中退率が上がるそうです。小さい子への読み聞かせはやはりとても有効なのだそうです。

さて、アメリカの公教育の特徴はそれがきわめて分権的だということです。ですから何か変えなきゃいけないとなった時に自治体や活動家、親、慈善家などがそれぞれに改革を模索します。ダイナミックである反面、長期的な視野には欠けることがあって、自治体や慈善家の方針変更に左右されやすく、学校の運営の仕方がころころ変わって結局生徒が割りを食うということにもなりがちです。安易に真似することは避けたほうが良さそうですが、色々と実験的なので他山の石として見る分にはとても興味深いと思います。

マーク・ザッカーバーグの寄付、驚愕の「使途」 | The New York Times | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイトという記事の最後に「子の最善の利益」は「子供が潜在能力を存分に発揮するための力を最重要視するという、単純明快な発想だ。」とあります。実にアメリカ的な考え方だなと思うのですが、潜在能力というのは教師も親も本人さえもよく判らないものです。ちょっとやってみたからといって潜在能力が開花するというものでもないと思います。一人一人の子に専門チームが組めるような資源があるならともかく、公教育が目指すものとしてはハードルがあまりにも高く、かつ異質だとも思うわけです。日本では学習塾か予備校、各種教室や習い事の範疇に入るものを公教育に要求するようでは、アメリカの先生達の受難はまだまだ続きそうだと思わざるを得ません。

追記

日本の小学校では英語が正規の科目ではないもののすでに授業に取り入れられています。会話の練習などが主で習うより慣れろ方式のようですが、これを正規の科目に格上げしようという話になっているようです。私は小学校から英語を学習する必要はあまりなくて、むしろ国語というか日本語を熱心に勉強したほうがいいんじゃないかと思っていましたが、最近考えを変えつつあります。

家庭や塾などで中学以前に英語を習うことが増えてきて、このあいだ会場受験で英検5級を受けてきた子の話によると会場は小さい子供で一杯だったそうです。そういった子達にとっては中学1年の英語は軽い復習です。自ずと学校の授業の進度は上がります。5年位前は中学1年生の1学期の中間テストはアルファベットの書き取りと簡単なあいさつ文が出来ればいいとか、テストするべき内容まで進まないのでテスト自体がない場合さえありましたが、今ではしっかりbe動詞の英作文までが試験範囲です。

そうなるとしかし、塾にも通わず小学校の英語をお遊戯程度に考えていた生徒にとっては付いていくのは至難の業です。英語の文構造に慣れる以前に次から次へと新しい文法事項が増えてきて混乱してしまいます。英語に関しては出来る子と出来ない子の差が数年前以上にはっきりしてきた感があります。

教室の中の習熟度の差が激しいことが問題なのですが、自主的に英語を学んでいる子達に勉強するなというのもおかしな話なので、塾に通っていない子供達のために小学校からの英語の正規化も止むを得ない、そうでもしないと中学校の授業が授業にならないのではないかと思ようになりました。