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アルジェリアの独立

ベトナムのフランスからの独立について読んだので、次は同じくフランスからの独立を果たしたアルジェリアについて読んでみました。

Martin Evans, Algeria: France’s Undeclared War

私事になりますが、三十数年前にサハラ砂漠を見にアルジェリアに行ったことがあります。初めての海外旅行でした。その頃はサハラ砂漠の真ん中の町、タマンラセットも安全で、日本人のバックパッカーもかなりいました。もっともその頃から「そろそろ治安が悪化してこの辺りの旅行は出来なくなるかも知れない」という噂は流れてはいました。その後、クーデターやら内戦やらが続き、現在でもイスラム原理主義勢力との紛争の影響で、タマンラセットは渡航中止勧告地域に指定されています。

旅行は大変楽しかったのですが、アルジェリア自体は豊かとは言えず、隣のチュニジアに入った時にレストランの食事がいきなり豪華になったのが印象的でした。

さて、アルジェリアもフランスの植民地になっていたわけですが、その独立の過程は大きく異なります。ベトナムとの違いは、まず何よりも地理的な近さが挙げられます。地中海を挟んで反対側、フェリーに乗って一晩で渡れる距離です。アルジェリアへのフランス人や他のヨーロッパ人入植者も多く、逆にフランスへのアルジェリア人の出稼ぎや移民も多い。人的にも政治、文化的にもフランスの影響はベトナムに比べてさえもかなり強いです。次にイスラムの影響が挙げられます。ベトナムは仏教国ですが、独立に際して仏教が国をまとめる力になったという印象はありませんでした。ところがイスラムでは違います。フランス人はイスラム教徒を迫害する異教徒という扱いになります。イスラムにとって異教徒に支配されることは例え万が一それが善政であったとしても屈辱に他なりません。さらにベトナムと違ってアルジェリアの隣国に東側の国はありません。冷戦構造に組み込まれることはありませんが、大規模な武器の購入や兵士の訓練などでの支援は見込めません。

第一次、第二次世界大戦を経て、アルジェリアでも植民地からの独立運動が起こります。しかし、頑強にその動きに抵抗したのが後にピエ・ノワールと自称することになるヨーロッパ系入植者たちでした。この人たちが強いのなんの。植民地支配下における圧政や入植者による利権の独占、二等市民としての日常的な差別などの理由でアラブ系住民がテロ事件を起こそうものなら、ヨーロッパ系入植者は自警団を作って倍返しします。フランス本国が独立運動に融和的な姿勢を少しでも見せようものなら、本国にも圧力を掛けます。1956年2月に当時のフランスの首相ギー・モレがアルジェを訪れた際には群衆が彼を取り囲み、トマトや土くれを投げつけまくるという事件まで起こします。小説家のアルベール・カミュはヨーロッパ系とアラブ系の融和を主張しましたがこういった人はごく少数派です。

フランスは独立を求めるアラブ系住民とそれに反対するヨーロッパ系との板挟みにあいます。出てきた方針は、独立についての交渉をするなら、まずはテロを止めろ、出来ないならテロに対しては断固として取り締まり、その間アラブ系に対しては融和的な政策をとって出来るだけ支持を取り付け、来るべき独立についての交渉ではフランスに有利な形に持っていく、というものでした。独立運動の側は一向に進展しない事態にしびれを切らし、急進派が民族解放戦線(以下FLN)を組織し、より武力闘争というかテロに舵を切っていくことになります。ちなみに今はアルジェリア戦争という呼び方になっていますが、実際にはテロとその報復、対テロ作戦の連鎖が続いているだけで、軍隊による大規模作戦といったものは、一度も行われていませんでした。

テロへの対策ですが、アルジェリアの治安の維持には現状いる警察では手が回りません。フランスは軍に治安の権限を渡し、本国では予備役を招集してアルジェリアに送り込みます。相手がテロリストですから容赦はありません。容疑者に対しての拷問による自白の強要は日常茶飯事です。FLNも対抗はしますが、軍事的にはフランスの勝利といってもいい状態になり、独立間際の時点では国内のFLNの勢力は壊滅、隣国のチュニジアなど国外へ追いやられます。

一方の融和政策はあまり芳しくありません。アラブ系に対する教育の充実や女性の解放などを掲げますが、ヨーロッパ諸国には受けのいい政策でもイスラム教を信仰するアラブ系に受けがいいとは限りません。また、FLNではフランスに協力するアラブ系はフランス人より悪いという認識なので、フランスに協力しようとするとFLNに殺されてしまいます。テロ対策で交通喚問なども厳しくなります。テロへの協力者がいるかも知れないという意識からどうしても扱いは荒くなり、日常的な差別が頻発します。村落ではFLNの浸透を防ごうと、急ごしらえのキャンプ地への強制移住が行われますが、長年慣れ親しんだ土地から切り離された不満が溜まっていきます。

 ここでフランスからの独立までのベトナムと比べてみます。それほど政治意識の高くない村落ではフランスに付くか、独立勢力に付くか、決めかねている時期がありました。そこでホーチミン率いるベトナムの独立勢力は教化のために勉強会を開いてみたり、パンフレットを作ってみたり人々の支持を得るために色々と頑張る必要がありました。アルジェリアでは違います。フランスへの協力者と見なされるとFLNのテロの標的になり、かといってフランスへ協力しないとテロ組織への協力者と疑われて嫌がらせや拷問を受けたりします。ベトナムでは趨勢がはっきりするまで、日和見を決め込むこともできたものが、アルジェリアではどちらについてもつかなくてもサバイバルを強いられます。フランス政府が1962年に出した数字によれば、独立闘争開始から独立を認めるエヴィアン協定まで、アラブ系アルジェリア人の犠牲者は1万6千人強に対してフランス人は3千人弱と、FLNの標的がまずはアルジェリアの裏切り者、それからフランス人という順序だったことが判ります。

アルジェリアの独立問題が長引くに連れ、フランス本国での懸念も増していきます。予備役の招集という形で身近な人たちがアルジェリアに送られ、一方でテロ容疑者に対する残忍な拷問や虐待が新聞や雑誌にリークされ大きな社会問題になるなど、アルジェリアを植民地として維持すること自体が大きな負担として考えられるようになってきます。1960年アフリカの年を経ると、植民地というイメージもよろしくありません。諸外国からの圧力も強くなります。サハラ砂漠に開発した石油やコンゴなど他のアフリカ諸国を抑えるうえでアルジェリアは地理的に重要だなどの植民地維持派の論点も次第に押されていきます。

これに対してあくまでアルジェリア独立を阻止しようとするヨーロッパ系入植者たちは暴動で対抗します。事態の収拾を任されたのはド・ゴールでした。首相就任後、アルジェの総督府での演説では「私は諸君を理解した」と述べ、入植者たちからは好意的に捉えられたド・ゴールでしたが、その後じりじりと政策を転換、アルジェリアの独立承認へ向かいます。この裏切りに入植者たちは秘密軍事組織(以下OAS)を作って対抗、アルジェリアのみならず、フランス本国でもテロの嵐を巻き起こします。1961年にはアルジェリアの独立を阻止しようと軍の一部がクーデターを起こし、失敗するなど混乱が続きます。

この頃、アルジェリアの独立勢力はほぼ国外に脱出していて、暫定政府なるものを作ったり、国外からテロの指示を出したりしています。実態のある組織として残っているのはFLNくらいしかありません。そこでド・ゴールFLNに和平交渉を呼びかけ、1962年3月エビアン協定を締結し、アルジェリアの独立を承認します。

アルジェリアの独立によって、ヨーロッパ系入植者は大挙フランスへ帰還します。経営のノウハウや技術を持った入植者たちがいなくなることでアルジェリアは経済的には大きな打撃を受けることになります。最もかわいそうなのはフランスによって組織された現地軍として戦ったアラブ系の兵士で、独立後、ド・ゴールには彼らはアルジェリア人だからという理由でフランスには受け入れてもらえず、アルジェリアで裏切り者として粛清を受けることになります。

さて現在、マクロン氏を非難するパリの週末の暴動は参加者が当初の28万人から最近では1万人規模に激減し、ようやく沈静化が見えてはきました。私などは芸術の都パリなどというイメージから大変驚いていたわけですが、これは私が間違いだったようです。アルジェリア独立の過程において、フランス人を中心とするヨーロッパ系入植者は何か要求があれば、即座にデモや暴動に訴えかけます。報復のリンチやテロ行為にも積極的です。フランスの官憲はこれに対して力で抑え込もうとします。こういった歴史が少なくとも1970年に入るまで繰り返されてきたわけで、フランスはもともと日本基準ではかなり暴力的な面のある国だったんだという印象を受けました。

それからアルジェリアに対する融和政策の失敗にも触れておきたいと思います。国を挙げて取り組んだ融和政策が結局は失敗したのに、なぜまだ多文化共生などという幻想に引きずられるのか理解に苦しみます。もっともアルジェリア戦争はフランスでは黒歴史扱いで、冷静な検証が行われてこなかったという点はあるのかも知れません。

ベトナムの独立

Fredrik Logevall, Embers of War: The Fall of an Empire and the Making of America’s Vietnam

ベトナム戦争と言えば、北ベトナム南ベトナムを支援するアメリカによる戦いを指しますが、なぜそういう構図になったのか、そこに至る経緯を、第二次世界大戦中にフランスが日本によってベトナムから追い出された辺りから描いているのが本書です。

第二次世界大戦までベトナムはアジアにおけるフランス植民地の中心的存在であり「極東の真珠」と呼ばれた存在でした。天然ゴムなどの資源に恵まれており、フランスからの移住者も多く、ハノイにはフランス風のカフェや香水店が立ち並ぶ目抜き通りがありました。

しかし、本国フランスはドイツの侵略を受け、あっさりと敗北、親ドイツのヴィシー政権が樹立します。ベトナムのフランス支配も日本からの圧力を受けます。ベトナム国内に日本軍の駐留を許すことで何とか続けようとはしますが、敗戦間近になり、何とか物資を確保しようとする日本軍によりフランスはベトナムを追われます。

さて、日本の敗戦が確定的になると、ベトナムには権力の空白状態が生まれます。フランスはベトナムの植民地支配を続行しようとしますが、敗戦間近の日本にさえ追われたフランスの姿を見たベトナム人には独立の実現性が見えていました。ホー・チ・ミンの指導の下、ベトナム8月革命によってベトナム民主共和国が樹立します。

興味深いのはアメリカとの関係です。第二次大戦以後、世界に大きな影響力を持つのはアメリカであるという認識から、ホー・チ・ミンアメリカの援助を願っていました。ホーは第一次世界大戦後のパリにアメリカのウィルソン大統領に請願に行っていたこともあり、アメリカの反植民地主義、民族の自由と自決を尊重するという立場に大きな期待を寄せていたのです。ベトナム民主共和国の独立宣言にはアメリカ独立宣言からの引用が数多く見られます。

しかしアメリカは戦後のヨーロッパにおいてフランスとの協力関係を必要としたことから、フランスを支持します。ソヴィエト連邦中華人民共和国もヨーロッパ情勢を重視し、フランスとの関係悪化を避けるためにベトナム民主共和国の承認をせず、民主共和国は孤立無援となります。フランスとの長期の交渉はフランスがベトナムの分割統治を進めたことから決裂、かくしてベトナム独立戦争が始まります。

ホー・チ・ミン共産主義者ではありますが、共産主義国家を作ることが第一目標ではありません。あくまでベトナムの独立、植民地からの解放が第一です。そのために共産党を一時解散して幅広い国民の支持を集めようともします(この動きはスターリンの不興を買い、スターリン存命中はソビエトとの関係はぎくしゃくします)。中国はその国境に共産主義国家が出来ることは安全保障上大歓迎なので国家の承認はしてくれなかったものの部隊の訓練や武器の購入などの支援をしてくれます。後に触れるフランスへのアメリカの支援に比べれば、微々たるものではありましたが。

困ったのがフランスです。帝国の面子と威信にかけて、植民地としてのベトナムは是非とも維持したいのですが、第二次世界大戦で大きな被害を被った結果、戦争に必要な人員も物資も資金もありません。援助を求める先はもちろんアメリカです。ただ、正直に植民地を維持したいので援助してくださいと言えば、明らかに断られます。ですので、当時の共産主義戦力の伸長に乗っかって、ここでベトナムの共産化を防がないと東南アジア全域が共産化の危機にさらされますよ、豊かな天然資源も共産圏の手に落ちますよ、ベトナム自由主義陣営の橋頭保であり、ここで我が国フランスを援助することは自由を守る戦いなんですよ、と後にドミノ理論と呼ばれる論理を展開します。

アメリカはこれに乗ります。赤狩りマッカーシズムとも言われる極端な反共産主義が全盛でもありましたし、中国国民党の敗北による中国の共産化、朝鮮戦争の不明瞭な結末が記憶に新しいところでは、アメリカの国内政治として、反共の為の協力を惜しんだと非難されては次の選挙が危なくなります。ヨーロッパの安定の為にフランスの協力は欠かせないという事情もありはしましたが。かくしてフランスは植民地の維持の為にアメリカの援助を必要とし、植民地に反対するアメリカは国内事情的にこれを援助するという些かねじれた協力関係が出来上がります。アメリカはこの後フランスがベトナムから撤退するまで事あるごとにフランスの作ったベトナムの傀儡政権の自治権拡大を要求し続けることにもなります。

さて、長いゲリラ戦と幾つかの会戦、クライマックスのディエンビエンフーの戦いを経てジュネーブ協定が結ばれ、ベトナム民主共和国が北緯17度より北を統治することが決まります。アメリカとしてはこれ以上共産勢力に領土を与えるなど許されないとして、交渉の決裂に持っていきたかったのですが、肝心のフランスがやる気がなく、このまま続けても戦局も思わしくないのが判ってきたので、交渉の結果を甘受することにします。しかし、この結果生じたベトナム共和国南ベトナム)はアメリカにとって理想の舞台となります。フランスが撤退し、植民地からの独立を果たした、共産主義と戦うベトナムの誕生です。

ジュネーブ協定ではベトナムの分割統治を永続化させない為に総選挙を行うことが明記されていましたが、選挙などをやるとホー・チ・ミンが勝ってしまうので、アメリカも南ベトナムもこれを無視します。南ベトナムを率いるゴ・ディン・ジエムは当初の政権の危機を乗り越えた後、統制を強め、身内びいきや汚職は目を覆わんばかりですが、これもアメリカは無視します。代わりにアメリカはジエムを優れたリーダーと囃し立て、アメリカに国賓として招いては大パレードを行ったりします。アメリカ政府は共産主義と戦うアメリカというポーズが国内政治の為に必要です。その為にジエムは理想のリーダーであってもらわなくては困るのです。

北ベトナムが総選挙が行われなかったことや南ベトナムの腐敗に引きずられる格好で徐々に浸透と侵攻を始めたとき、アメリカはすでに南ベトナム軍の訓練の遂行や作戦に同行することで軍事的な協力体制を深めていました。トンキン湾事件後、アメリカの議会が大統領に東南アジアでの派兵の権限を与え、公式にベトナム戦争が始まるのですが、それまでにかなりの地上部隊がベトナムに展開し、損害も出ています。ただ、この流れは第二次世界大戦以降、アメリカの政治事情やメディアが営々と作り出してきた大きな流れによるものであって、そう簡単に止められるものではありませんでした。

 

ディエンビエンフージュネーブ協定

北ベトナムとの講和会議の前に北ベトナム軍に大打撃を与え、交渉を有利に進めたいフランスが立案したのがラオス国境に近いディエンビエンフーにて要塞を構築し、北ベトナム軍の侵攻を撥ね退けるという作戦でした。フランス軍は、現地住民の協力も仰げず、地の利も生かせませんが、装備において勝ります。フランス軍が大きな戦果を挙げられたのは、防備を固めているところに北ベトナム軍が侵攻してきたときだけでした。ディエンビエンフーには滑走路もあり、制空権を持っているフランスなら空輸でも物資を運べます。似たような状況で北ベトナム軍に痛撃を与えたNa Sanの戦いがあり、この拡大再生版を狙います。

北ベトナム軍を率いるヴォー・グエン・ザップはフランスの賭けに乗ります。こちらも講和会議を有利に進めるために判りやすい戦果が必要です。この講和会議の為の最後の大規模な対決という舞台設定がディエンビエンフーの戦いの特異なところだと思います。後世の評論家からは周りを山に囲まれたディエンビエンフーに陣地を構えるのは山に据え付けられた大砲からの射ち下ろしに会うので愚の骨頂と評されてしまうことも多いのですが、著者の見立ては異なります。理屈ではそうかもしれませんが、山の斜面に大砲をふもとからほぼ人力で運んできて据え付けるのは恐ろしく困難で、大規模な砲の運用は北ベトナム軍には不可能と判断したフランスの判断は理のないことでもありませんでした。北ベトナム軍の努力と根性がそれを達成してしまったわけではありますが。

著者はそれよりも、陣地の構築に問題があったと指摘します。司令部と補給のための命綱でもある滑走路を守るように配置した九つの陣地(特にイザベラ)は離れすぎていることもあり互いの連絡が良くありませんでした。要塞化にしても、厭戦気分の拡がる本国を意識して連日、政治家やジャーナリストの視察、政治宣伝が行われ、肝心の陣地の構築がおろそかになっていた感があります。

また当時のフランス軍ならではの問題がありました。制空権を持っているとは言っても中身はアメリカ頼りです。議会を慮って単独での介入を避けたいアメリカは民間人のパイロットという形でフランスに協力してくれたりしますが、いちいちアメリカにお願いしに行くようでは航空部隊の効率的な運用などおぼつきません。フランス軍の中身にも問題があります。第二次世界大戦で弱体化したフランス本国では、厭戦気分も相まって兵士を大量にベトナムに送り込むなど不可能です。仕方がないので外人部隊やフランスの他の植民地、北アフリカなどから軍を送り込むのですが、どうやっても士気に問題があります。中には全滅するまで戦った部隊もありますが、途中で戦線を離脱し、目立たないところで日和見を決め込んだ人たちも数千人規模で存在しました。アルジェリアなどフランスの植民地支配が厳しい所で食い詰めて、軍に入ったものの何の因果で他所の植民地が独立するのを防がなければいけないのか、戦うことに意味が見いだせないのもうなづけはします。

かくして北ベトナムディエンビエンフーの戦いに勝利して、ジュネーブの会議に挑みます。しかし、結果は戦局から判断するよりはるかに北ベトナムには厳しいものとなりました。北ベトナムの希望よりも国境線は北に上げられ、総選挙の予定もかなり繰り下げられました。結局、アメリカが軍事介入を匂わせ、アメリカとの対決を望まないソビエトや中国が北ベトナムに譲歩を促すことになったからです。ベトナム地域大国ではあるのですが、アメリカやソビエトとの格差の違いに涙を飲むこととなりました。

ソヴィエト連邦の崩壊 その後

Roy Medvedev, Post-Soviet Russia: A Journey Through the Yeltsin Era

著者は政治家兼文筆家で反エリツィン派の人です。本の記述にも政策の失敗を糾弾する色合いが強いです。エリツィンによる議会派への砲撃事件の記述は生々しい。

 

Chris Miller, Putinomics: Power and Money in Resurgent Russia

著者はアメリカの経済学者でThe Struggle to Save the Soviet Economyの著者でもあります。

 

ゴルバチョフが支持を失った後、ロシア共和国の大統領となったエリツィンは他の共和国の大統領との密議を経てソヴィエト連邦の解体を宣言します。エリツィンはその後、ガイダーという若手の経済学者を経済改革のトップに据え、価格統制の撤廃、国有企業の民営化や資産の払い下げなど矢継ぎ早の改革に着手します。改革はIMFなどのアドバイスも取り入れたものだったのですが、結果は散々なものでした。生産の低下や高率のインフレに悩まされ、ソヴィエト時代の年金は吹き飛び、手厚かった公共サービスは軒並み縮減されます。インフレは1992年だけで最も低い推定値で2500%、高いもので10000%、つまり価格は25倍から100倍に跳ね上がりました。生産は20%以上下がり、特に農産物で低下しました。

そもそも計画経済での工場は集約化が進んでいます。競争のない独占状態が通常なのです。地方都市に単一製品を製造する巨大な工場があって、そこでソヴィエトの決められた地域の供給全てを担当していたりします。だからちょっとでも歯車が狂うと国内では代替が効かない。

国有企業の民営化も、もともとは国民の財産だからということで企業の所有権をバウチャーとして国民に配ってみる、その工場の労働者からなる委員会に譲渡する、入札制度で一括で売却など幾つかの方式で民営化を進めますが、スピードを重視するあまり、適切な所有者がきちんと経営を行うという状況にはなりません。バウチャーは配当がろくに入ってこないので、投げ売りする人が続出します。捨て値だからとそれらを買い集める人が大工場の所有者になって、工場を放置状態にしてたりします。労働者委員会方式では、かつてのソヴィエト方式で旧態依然とした経営を続け、変化に対応できません。

大混乱ではあるのですが、本によってこのあたりの解釈はかなり異なります。Medvedev氏は拙速な政策の誤りを糾弾し、計画経済を一部残したままの部分的な自由化や経済特区によって価格を自由化した場合の影響を測るべきだったとします。中産階級を育ててから本格的な自由化に乗り出すべきという主張です。モスクワで物々交換の為の市が乱立しているので通貨の供給不足もあったに違いないとも推定しています。

Miller氏はまずはインフレの原因を政府による通貨の過剰供給に置きます。東欧諸国への援助が必要ではなくなったことや軍事費の削減が助けにはなりましたが、ソヴィエト時代の負債や石油価格の低迷、経済や政治の混乱によって租税の徴収システムが機能しなくなっていたことからロシアの負債は拡大を続けていました。しかしエリツィン政権は増税には踏み切れず、輪転機を回し続けることを選択しています。国債も乱発していて、これが結局はロシア危機を引き起こすことになります。国民生活についてはGDPの低下(1992年のGDPは前年比14.5%減)は軍事費を削った結果軍産複合体の生産が低下したためで数字から想像できるほどは国民生活には影響が及んでいないと指摘します。市場経済にいち早く対応した人、コネや権限を生かして政府から捨て値で資産を獲得した人が巨万の富を手に入れる一方で、そうでないものは貧しくなっていきますが、同時に西側からの物品の流入で電化製品や車の所有が増えるなど自由化の影響は一概には捉えきれない面があります。一般の人々も特にサービス業で自営に乗り出す人も多く出てきます。生産の低下にしても、そもそもがソヴィエト時代から商品の不足には慣れている人たちばかりですし、西側の感覚で考えるより意外と大丈夫だったのかも知れません。

通貨供給に関してはMedvedev氏の言うように不足が生じていたなら価格はデフレ方向に向かうでしょうから、Miller氏の方が正しいと思います。

エリツィンの再選に関しても意見が分かれています。Medvedev氏は対立候補の失速と新興富裕層と結びついたエリツィンの広告攻勢を再選の原因に挙げます。Miller氏はエリツィンが再選前に繰り返した内閣改造によってこれまでのような急進的な改革路線を完全に捨て去ったことと経済の自由化に対応しつつあった人々が改革の逆転を望まなかったことをエリツィンの勝因に挙げます。1993年の議会砲撃事件に関しても、Medvedev氏にとっては議会派は民主主義の代弁者ですが、Miller氏はエリツィン率いる急進派と既得権益の代弁者たる議会派の争いとしていて温度差がかなりあります。

悪化したままの経済状態と急速に力を増した新興富裕層の浸食によってエリツィン政権はその後レームダックに陥り、エリツィンは三期目をあきらめ急遽プーチンを後継に指定し政治家を引退します。

プーチンは政府の財政を安定させることに尽力します。KGBや自分の人脈から要所に人材を配置することで、地方自治体の権限を弱め、中央集権化、租税システムの整備や歳出の削減を進めます。石油価格の上昇などもあってロシア危機後のロシア経済の復活に成功します。人々がエリツィン時代の放漫財政で痛い目を見ていたこともプーチンの改革には大きく影響しました。

プーチンの経済政策は中央政府の権威の強化、権力と財力の確保を第一目標にします。次に人々の不満を高めないように失業率を抑え、満足できる程度の年金を支給することです。最後に上記の2つを侵害しない範囲で経済の発展を目指す。というものだそうです。かつてプーチンと交代で大統領になり、一時期はプーチンの後継者とも目されたメドヴェージェフは何よりも経済の近代化、改革を優先する傾向にあるので、この点でプーチンと政策の優先順位に違いがあります。

ロシアといえば、汚職がつとに有名ですが、一番目の目標のために、天然ガスや石油など外貨獲得源でもあり、ロシアの外交とも大きな関わりのある分野はプーチンの個人的な人脈でがっちり固めています。二番目の目標のために、大企業がリストラを発表すると露骨に政府から嫌な顔をされます。反面、小売りやサービス分野では上記の二項目とはあまり関わりがないので、西側の技術なども取り入れて、非常に伸びているそうです。

さて、プーチンによって経済は安定したとはいえ、今のロシアは相変わらず天然ガスと石油頼みの中進国です。大きいのは、かつての超大国としてのプライドと経済力に見合わない軍事力だけ。トランプ以後アメリカの警戒がロシアから中国へ移ったのはロシアにとっては朗報ですが、そのプーチンも今や66才となり、2024年に第4代大統領の任期が切れるころには70台に入っています。もし、プーチンが政治家を引退するならロシアはどう変貌するのか、特に個人的な人脈で固めまくった天然ガス・石油企業と政府の関係がどう変わっていくのか、興味が尽きません。

そのドラマを観るためには、まずはプーチンよりも長生きしなければなりません。健康に気を付けて、日々を過ごしたいと思います。

 

 

 

ソビエト連邦の崩壊

個人的にロシアという国はかなり好きです。といっても、極端に寒い上に娯楽も少なそうで、プーチン大統領の悪口を言ったら投獄されてしまいそうな所に住んでみたいとかいうわけではありません。西ヨーロッパ諸国やアメリカのように人権やら何やら説教しながら裏でこそこそ陰謀を巡らしているのに比べて、ストレートに国益を追求する姿勢がいつも新鮮な驚きをもたらしてくれるといった程度のものです。

さて、ソビエト連邦が崩壊した当時、私は学生をやっていました。連日、報道でポーランドワレサ氏やソビエトゴルバチョフ書記長の動向が伝えられ、ついにはベルリンの壁が崩されたまで位は覚えているのですが、結局あれは何だったんだろうと思うと今一つしっくりくるものがありません。言うまでもなく、世界初の社会主義革命に始まるソビエト連邦はその存在自体が人類史上に残る巨大な実験でした。その崩壊からほぼ30年がたち、徐々に歴史として扱っている本も出てきました。以下敬称略します。

Vladislav M. Zubok, A Failed Empire

スターリンからゴルバチョフまでの通史です。ソビエトの書記長という立場がどういうものなのかが何となく判る本です。ソビエトの書記長というと絶対権力者のようなイメージを抱いていたのですが全然そんなことはなさそうです。個人崇拝プラス粛清という最強の手段を使えたスターリン以降、書記長は党の官僚機構のより広範な支持を得てなるものとなります。ただ、官僚はそれぞれに既得権益を持っていますから、それらを出来るだけ刺激しないことが書記長として選ばれ、長くやっていくコツになります。正直こんなんだったら民主主義政体の大統領や首相のほうがよほど強権を振るえます。選挙に勝つということは権力に正当性を与えることなんだと改めて納得したりしました。漫画「ウォッカ・タイム」でおなじみのチェルネンコも登場しますが、確かにこれはからかわれても仕方がない感じだったり、色々と面白エピソードが満載です。

 

Michael Dobbs, Down With Big Brother

ポーランドなど東欧諸国の混乱から始まってソビエト崩壊に至る過程を追った本です。著者がジャーナリストなので、事件の描写が鮮明でまるでその場にいたかのような臨場感があります。読んでいてわくわくしますが、それぞれの事件の背景描写やなぜその事件が起こるに至ったかが弱いので、読んだ後で結局なんだったんだろうってなります。報道や現場中継を整理して読んでいる感じです。

 

Chris Miller, The Struggle to Save the Soviet Economy

ソビエト崩壊は党組織や経済の問題だったということがよく判る本です。ソビエトの崩壊では何かと悪役にされることも多いゴルバチョフですが彼に対する最高の弁明でもあります。

ちょっと不調に陥っていた経済を改革するために始めたことが何が何でも既得権益を維持拡大しようとする官僚機構によって手詰まりどころか完全に逆効果になり、仕方がないので政治改革や外圧によって事態の打開を図るもあっという間に手におえない事態になり最後には孤立無援で周りは敵だらけという救えない話です。他の本ではゴルバチョフは経済改革には無能で、やったことと言えば完全に失敗したアルコール販売の禁止位で価格統制の撤廃すらしようとしなかったとなっているのですが、ゴルバチョフだって色々やろうとはしたのです。中国の改革開放路線も研究しました。しかし、官僚機構は頑強に抵抗します。農業の生産効率を上げるには集団農場を廃止し、自由化を進めるべきだと言えば、官僚の方は、いやいや農業の近代化が遅れているのが原因だから補助金をよこせと返します。自らの権力基盤の弱さもあって、補助金と引き換えに自由化を進めようとすれば、自由化の方は現場の下級官僚が抵抗して実施に至らないし、補助金はといえばそれで購入された新品のトラクターが使われもせず倉庫に積み上がっていくばかりです。万事がこんな調子なので赤字は増える一方でむしろ何もしない方が良かったとさえいえる状況になります。

今度は官僚機構ではなく国民に期待をかけ、情報公開を進めて自主的な改革を促そうとしたらスターリン時代の悪事が国民に知れ渡り、党に対する反対運動も激化、統治機構自体が能力を低下させ、いよいよもって何もできない状態になってしまいます。外交では良いことばかり言っていた西欧諸国も肝心の時にはもちろん助力はしてくれず、むしろいい気味だと言わんばかり。スターリン毛沢東ならこうなる前に大粛清が始まっているところでしょうが、歴史上そういうことが出来る人は限られます。

鄧小平による中国の経済改革と比べられることの多いゴルバチョフの経済改革ですが鄧小平にはゴルバチョフにない大きな利点がありました。鄧小平が改革開放路線を始めた当時、中国の官僚機構は毛沢東文化大革命により大きく弱体化していました。反面、ゴルバチョフにはブレジネフの統治と次の病人二人(アンドロポフは改革を始めようとはしたのですが途中で病気で亡くなります)によって長年育まれた官僚機構がそのまま残されていました。日本の戦後の経済改革の話も出てくるのですが、思えばあれも敗戦のショックとその後の占領による官僚機構の弱体化がなければなしえない出来事ではなかったのかという気になります。それにしても、悲惨で醜いばかりで何も良いことがないと思われていた文化大革命にこんな利点があったとは驚きました。

この本を読んでいた時は、日本大学の運動部の不祥事などもあって、外圧の掛からない組織というものは身内の論理によって固められてしまうものだなと思いました。誰が偉いの偉くないのとか面倒事は避けようとか、既得権益は絶対に手放さないとか。資本主義経済の利点というのも利潤や効率などの外部の論理による圧力がかかること、あまりにひどい組織には市場から退場していただく仕組みがあることにもあるのでしょう。計画経済においてはその手の外圧は働きません。ならばと粛清によって言うことをきかせようとしたのがスターリンでした。資本主義経済だからといって非効率がなくなるわけではありません。官僚機構に留まらず、競争の激しくない事業分野の会社や大学などから町内会に至るまで、身内の論理によって非合理性や非効率性に侵されている組織はいくらでもありそうです。

 

 

 

 

Climate Change : The Facts 2017

今も週末にパリで行われている暴動の切っ掛けは燃料税の引き上げでした。地球温暖化対策として、パリ協定を順守するために必要な措置の一環です。このパリ協定と暴動との関連については、トランプ大統領の「愚かで極めて高くつくパリ協定をやめ、減税して国民に還元するべきだ」とのツイートを除いては論評が避けられている気がします。地球環境を守るためというお題目と民衆の反乱という現実をうまくまとめ切れていないと感じます。

さて、本書は「Climate Change: The Facts 2014」の続編です。3年経って判ることも増え、地球温暖化説に対する総攻撃といった感があります。以前のblogを読み返してみると論点はほぼ変わっていないのですが、データが増え、説得力を増しました。

ご存知の方も多いと思いますが、人為的な二酸化炭素排出による急激な地球温暖化説はおおむね以下のような論理に基づきます。

1 地球表面の温度は観測により上昇している

2 同時に人為的な排出による二酸化炭素によって空気中の二酸化炭素濃度も上昇している

3 二酸化炭素は地球表面からの放射を吸収する温室効果ガスとして働き、二酸化炭素の増加が地球表面の温度上昇の主因である

4 地球表面の温度上昇は地球環境の激変を招き、人類を含めた生態系にとって有害である

5 地球温暖化を防ぐためには人類はその二酸化炭素排出量を削減しなければいけない

これに対して本書では以下のような疑問が呈されています。

1 オーストラリアでの観測データを詳しく見たとき、周囲の環境がほとんど変化のない観測地点のデータを選ぶと、発表されているような気温の上昇傾向はほとんど見られない。ただ、それらのデータも機器の更新や観測地点の変化に対する補正と称する公開されていない手法によるデータ統合によって、温暖化を示すデータとなっている。またヒートアイランド現象の効果を除外するには環境が都市化した観測点を除外するべきだが有効な対策は行われていない。

2 人類の排出する二酸化炭素は地球上の二酸化炭素排出量と比べると実はわずかで分かっていないことも多い。空気中の二酸化炭素濃度と気温の変化をよく見ると気温の変化が二酸化炭素の濃度上昇に先んじているので気温の変化によって二酸化炭素濃度が上昇している。

3 二酸化炭素温室効果ガスとしての効果は確かにあるだろうが、気候変動モデルが前提しているよりも低い。最近の実験によるデータを使うべきであるし、最大の温室効果ガスである水蒸気の効果も取り込むべきである。また、気温の変動は幾つかの周期が重ね合わさっているように見える。この周期は二酸化炭素の増加だけでは説明できない。具体的なメカニズムは仮説に留まるが同じ周期で発生するものに太陽や月、太陽系の他の惑星による影響が考えられ、二酸化炭素濃度の増加以外が気温上昇の主要因である可能性は否定できない。

4 地質学的な資料により過去の地球において現在よりも気温が高かった時期があるのは明らかである。地球の気温は常に変動し続けており、現在の気温上昇が不可逆的であると信じる理由はない。中世の温暖期には地球の気温は現在よりも一度ほど高かったと推定されている。また、現時点まで特に地球温暖化によると見られる被害は認められない。自然災害は通常の変動幅の範囲にある。グレートバリアリーフの白化は一時注目を集めたが美しいサンゴ礁はいまだに健在である。IPCC でさえ温暖化による旱魃の増加はなかったと認めざるを得なかった。一方で二酸化炭素濃度の増加は植物の生育を明らかに促進させ、食料の増産や森林の増加に大きく寄与している。つまり、二酸化炭素濃度の増加は現時点で人類に益しかもたらしていない。

5 パリ協定による二酸化炭素削減が計画通りにいったとしても気候変動モデルによる気温の減少幅は誤差の範囲に過ぎない。一方でその費用は莫大である。将来の世代のためと称して現在の貧困層発展途上国の住民に安価な化石燃料の使用を止めさせ、大きな負担を強いることには倫理上の問題点さえあるのではないか。

ざっとまとめたつもりですがこれでもかなり抜けがあります。

本書は様々な分野の専門家がそれぞれの立場で地球温暖化説への疑問を呈するという格好になっているので、温暖化に対する統一的な見解とはなっていません。そのため繰り返しが多かったり使用している数値にばらつきもあります。ですが、地球温暖化に対する懐疑派側のもっともよくまとまっている本ではないかと思います。

日本では二酸化炭素排出削減が政治の議題にのぼることも少なくなり、アメリカはパリ協定から抜け、中国は当初から無関心、ヨーロッパだけが孤軍奮闘している感じでしたが、そこへもってきて今回の暴動です。二酸化炭素排出量を削減するということからみれば、今回の暴動はこう読み取れます。今まで植物の生育を助け、特に食料の増産を通じて食料価格を下げることにより、特に貧困層の助けとなっていた二酸化炭素を、マクロン大統領のような上流の人たちが、まだ何も悪影響など出ていないうちに「将来の地球環境のために」というお題目で、貧困層に負担の大きい燃料税のようなやり方で排出削減するのです。もうすでに事態は燃料税どころじゃなくフランスの政治体制やEUの存立すら脅かしかねないところまで来ているという気もしますが、二酸化炭素削減の枠組みもこれから変化していくのか気になるところです。

LISTEN, LIBERAL bu Thomas Frank 米民主党の変質について

2016年のアメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選した直後、主にアメリカの大学生を中心にヒラリー・クリントン氏を支持する人々によるかなり大規模な反トランプデモが起こりました。当時の私にはこれが大きな疑問でした。このブログでもいくつか、アメリカ大統領選挙に関するパンフレットを紹介したのですが、それらの本から得られる印象ではクリントン氏とトランプ氏に大きな違いはないように思われたからです。クリントン氏は女性の味方を謳い、トランプ氏はポリティカルコレクトネスなどどこ吹く風ですが、どちらもエスタブリッシュメントで政策的にも大きな違いはありません。トランプ氏が反移民と言っても彼が言うのは反不法移民やテロ予備軍を締め出せと言っているだけで、実際の政策となれば、ヒラリー氏が大統領になったとしてもやることは似たようなものになると思われました。トランプ氏とクリントン氏の差より、むしろサンダース氏とクリントン氏の違いの方が遥かに大きい。特に学生にとってはサンダース氏の政策はもし実現すれば大きな利益となるでしょう。ではなぜ、サンダース氏の敗北で黙っていた学生たちがクリントン氏の敗北で騒ぎ出したのか。どうやら私のクリントン氏に対する見方が、アメリカの学生たちのそれとは大きく異なっていると思わざるを得ません。

さて、本書は2016年の3月、大統領選の予備選をやっている時に出版された本です(従ってトランプ氏についての言及はほとんどありません。この本の執筆時、氏は泡沫候補扱いでしたから)。長年の民主党支持者だった著者が、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の下で確立された、強固な労働組合を支持基盤とする「民衆の民主党」が特にビル・クリントン政権以降どのように変わってきたのかを批判的に描いています。

筆者は特にクリントン政権に批判的で、彼の下に米民主党は労働者の党から専門家集団の利益を代表する党へと変貌したと主張します。ここでの専門家集団とは、高校生の頃から優秀な成績を取り、一流の大学を出て起業したり、就職したり、大学の教官や弁護士になった人たちのことです。ひと昔前の流行言葉の「ヤッピー」がそのまま当てはまります。ITバブルやドットコムバブルと言われた80年代の好景気を担ったのもこの層でした。従来型の製造業が衰退し、硬直化した労働組合が力を失っていく中で、新しい産業を担ったこの層に民主党が接近していくのも自然な流れだったのかも知れません。「ヤッピー」のほうも、政治的にはリベラルで、移民には寛容かつ差別問題にも敏感なので民主党との親和性も高い。実際、弁護士から民主党への献金額は頭抜けていますし、大学の教官やマスコミ関係者の民主党びいきは明らかです。ウォール街にしても、同じ民主党政権オバマ氏は大統領である間はウォール街を口では非難していましたが、大統領の任期を全うした直後にウォール街のために講演し、金融関係者は喜んで元大統領に多額の講演料を支払いました。

かくして変貌した米民主党は著者に言わせれば頭の良い専門家集団のための「10%の為の党」になりました。共和党を揶揄する言葉に大企業を優遇する「1%の為の党」という言い方があるのですが、それをもじっています。この民主党政権の下では人権問題に特に変化が見られました。移民や性差別、特に同性愛者の対する権利の強化は大きく、それ以前のアメリカでは同性愛者同士の結婚など考えられもしなかったでしょう。ただ一つ、非常に大きな社会問題は悪化しました。格差の問題です。クリントン政権以降アメリカの所得格差は格段に拡がり、その後も改善されませんでした。「ヤッピー」たちは確かにリベラルではあるのでしょうが、同時に彼らを特徴づけるのは能力主義です。リベラル的な倫理観も弱者保護というより、人間は能力のみによって評価されるべきなので、性差や出身、性的嗜好などによる評価はなくすべきである、という論理に基づきます。

学業に勤しみ、その結果、高所得の職業についたヤッピーにはごく自然な論理なのでしょうが、反面、低所得者が低所得であるのは努力が足りなかったからだということになります。所得の格差も個人の能力の反映なので特に大きな問題ではないということになってしまいます。必要な施策は最低賃金の向上や低所得労働者の保護ではなく、教育の充実であると訴え、チャータースクールなどに熱心なのもこれらの人たちです。高い収入を得るためにまず必要なものは良い教育であり、しっかりとした教育をしさえすれば、賃金水準は向上するというわけです。

本にはありませんでしたが、私の考えでは教育は万能薬ではありません。確かに個人のレベルでは勉強して良い学業成績を修め、高い専門技能や良い就職先につけば高い収入を得られるのは統計的に明らかです。また、国家においても教育水準の高い国民の育成は最重要事業であろうと思います。産業の競争力においても大事ですし、何より国家の主権者としてきちんとものを考えられる国民は必須です。ですが、貧困対策や格差問題の対策としては、国家の施策として教育を高度化したからといって産業構造が劇的に変わらない限り、教育を受けた人材全員の収入が向上するということは起こりません。専門家集団が高収入なのはその技能が希少だからです。要求される作業量に対して、人材が逼迫しているから高い価値が付くのです。教育を高度化して人材だけを供給しても作業量が増えなければ、専門家集団の価値はむしろ下がってしまいます。法科大学院を作って弁護士を増やしても、業務が増えなければ食べていけない弁護士が増えるだけです。かつてのヨーロッパでは一流大学を出ても、職がないのでタクシーの運転手をやってたりニートにならざるを得ない人たちが問題になっていました。


再び本の主張に戻ります。オバマ政権は政権発足当時、大きな期待を集めました。前任のブッシュ大統領の閣僚がいかにもお友達や取り巻きを集めていたのに比べ、アメリカのまさに選良と呼び得る人材を集めていたからです。ですが、期待はやがて失望に変わります。オバマ政権の閣僚たちは根っからの優等生でした。優等生らしく全員一致を目指した挙句、妥協に妥協を繰り返し、彼らの法案はいずれも極めて複雑かつ実効性の乏しいものになっていきます。。オバマ政権で特に注目を集めたのがいわゆるオバマケアという社会保障制度法案ですが、この法案はまさに典型例で、ある議員曰く、「アメリカの議会を通過したもっとも複雑な法案」です。この頃の決められない政治の原因に、アメリカの分断された政治状況やティーパーティーの頑迷さを挙げることも出来るのでしょうが、当の政権の性質にも一因があったと断じています。

さて、冒頭の疑問に戻ります。クリントン氏とトランプ氏について私は両方ともエスタブリッシュメントだと考えていましたが、その成り立ちは大きく異なっています。中産階級の出から、一流大学を出、自分の能力でのし上がったクリントン氏が10%のほうなら、親の事業を拡大させたトランプ氏は1%のほうです。デモの主体となった学生にとっては、その政策うんぬんよりクリントン氏は将来目指すべきロールモデルだったのではないかと思うのです。その意味で言えば、サンダース氏は大したことのない大学を中退した挙句の市民運動家上がりで、学生の目指すキャリアとは遥かにかけ離れています。これがサンダース氏でもトランプ氏でもなく、クリントン氏の敗北が激烈な反応を呼んだ理由のような気がします。

また、大統領選では結果として共和党のトランプ氏が勝利したのですが、増え続ける非白人有権者民主党には有利に働く筈であり、事前の予想では民主党にとっては負ける筈のない選挙でした。ですが、その実、1%でもなく10%でもない、普通の89%の負け組の人々は取り残されていたのだろうと思います。

当時、日本で反知性主義という言葉が急に目に付くようになりました。原義は「(頭でっかちな)知識人に対する(健全な)反感」といったようなものだと思うのですが、日本で使われた際にはまったく別な意味になっていました。それはさておき、なぜこの言葉が使われるようになったのか。私が思うにアメリカのどこかで笛吹けど踊らない人々に対する知識人層のとまどいがあったのではないかと思っています。そのとまどいが古い言葉を蘇らせ、その過程で日本に(勘違いされて)伝わったのではないでしょうか。

そうして見ると、当選してからもトランプ大統領は一部を除いてマスコミを敵に回し、Twitterを使って発信を試みるなど10%を排除し、89%に対して直接声を届けようとしているように思えます。2016年の大統領選挙は10%を敵に回し、89%を味方に付けようとしたトランプ氏が一番選挙民のことを判っていたという選挙だったのではないでしょうか。

初期キリスト教

キリスト教イスラム教、仏教を世界三大宗教という言い方をしますが、この3つに共通するのは控えめに言えば布教活動に熱心、あからさまにいえば武力を背景に信仰を広めてきた歴史があることです。

なぜ自分の信じている宗教を広めなければならないのか、その切迫感は個人的に、とても疑問でした。宗教は精霊信仰から出発します。それから部族の守り神として崇拝の対象になります。ユダヤの神やギリシャ、日本の神々もみんな部族の守り神です。ですから、部族の外に関しては神の恩恵は及ばない。戦争の勝った負けたが神々同士で力の比べっことして捉えられることはあります。ただ基本的には「私には私の神がいて、あなたにはあなたの神がいて、それでいい」のです。

ですが、なぜ上記の世界三大宗教は布教に熱心なのでしょうか。もちろん、お布施や献金など経済的な理由もあるでしょうし、組織というものは出来てしまえば、拡大と存続を目指すものだということもわかります。他者を組織のヒエラルキーに組み込んで隷属させるという権力欲もあるかも知れませんし、何より国家の運営にとって宗教は大きな武器であり、施政者には布教の名分のもとに国土の拡大や植民地化を進めていくという意欲もありました。ただ、そんな風に話が大きくなる前に、すでに上記の3大宗教には布教への動機があり、その他の宗教と一線を画していた部分がある筈です。それは何でしょう?なぜその宗教を信じないことが信じている人にとって都合が悪いのでしょう?

今回、読んでみたのは
“Zealot” by Reza Aslan
“Paul and Jesus” by James D. Tabor
“The Secret Legacy of Jesus” by Jeffrey J. Bütz
“After Acts: Exploring the Lives and Legends of the Apostles” by Bryan M. Litfin
です。“Zealot”はイスラム教(前著の”No god but God
”から察するにシーア派っぽい)の学者による本で、この本の特徴は聖書にあまり重点を置かず、聖書以外で得られる情報に基づいて、当時の社会状況や政治状況からキリストとその周辺について再構成した点にあります。“Paul and Jesus” と“The Secret Legacy of Jesus”はキリスト教系の人ですが、宗教者ではなく、歴史家として初期キリスト教とか歴史的キリストいう分野をやっている人の著書です。“After Acts”はプロテスタントの人で聖書の記述を記述通りに解釈しようとするとなかなかアクロバティックなことになるという実例として大変面白く読みました。

さて、Jesusについてですが、実在の人物としてのJesusに関して資料の裏付けがあり、研究者が一致している部分はそれほど多くありません。BC3~4年頃に生まれ、洗礼者Johnに洗礼を受け、数年の布教期間ののちにエルサレムの神殿に乱入、ローマに対する反逆でAD30~33頃に処刑される。これだけです。なぜ、実在のJesusについての資料が少ないのか、その理由は実在のJesusがそれほど大物ではなかったからです。Jesusが生きていた頃のパレスチナはローマの支配下にあって、ローマとその協力者に対する憎悪に満ちていた時代です。ローマに対する反逆者の長いリストには
Hezekiah the Bandit chief
Simon of Paraea
Athronges the shepherd boy
Judas the Galilean
the Samaritan
Theudas
the Egyptian
sons of Judes (Jacob and Simon)
などがあります。Jesusは辺境でローマの支配がじきに終わるだろうことを説いていた洗礼者John(ローマにより処刑)の洗礼を受けた後、ローマの支配と結託していたエルサレムの神殿を荒らした騒乱罪で処刑されたに過ぎません。また、Jesusは奇跡により信者を集めていたこととされますが、これもこの時代では割とよくあったことのようで、先のリストの中のthe EgyptianやTheudasも魔術を使っていたようです。

キリスト教系以外の文献ではJosephusという人のAntiquitiesという書物にJesusの兄弟であるJamesの記述があり、そこに「Jesusの兄弟のJames」という記述があるためにようやくJesusの実在が確かめられる程度です。むしろ、同時代人にとってはJesus亡き後、その教団を受け継いだJamesのほうが大物だったようです。

Jamesはその公正さからかJames the justと呼ばれ、先のAntiquitiesによれば、粗末な衣服の他には何も持たず、ワインも飲まず、肉も食べず、風呂にも入らず、髪も切らず、香油も付けない。ただただ貧しい人のために働き、祈りを頻繁に行うために膝がラクダのように固くなっている、とあります。敬虔なユダヤ教徒として人々の尊敬を集めていました。後にエルサレム神殿の謀略によって殺されてしまいますが、JosephusはJamesが殺されたことが後のエルサレム蜂起の一因であると述べる程です。JamesはJesusの身近にいて、行動を共にした後に後継者となっているわけですから、Jesusの説いたこともJamesの行動と異なってはいないでしょう。

Jesusが洗礼者Johnの洗礼を受けたことや、来るべき神の王国でユダヤの12の部族の長とすべく12人の使徒を決めたこと、歴代のイスラエルの王と同じく神の子と自称したことなどから考え合わせると、Jesusは敬虔なユダヤ教徒であり、Jesusの説いたことは、ローマの支配がいずれ終わり、地上にユダヤの国が作られ、Jesusはその王となるだろう、ということだと考えられます。これはまことに当時の伝統に即したもので、王や預言者を自称したりするものは他にも多くいました。

ただ、Jesusが他の救世主達と異なっていた点は、Jesusが処刑された後も、Jesusの復活を信じて教団を維持する親族や弟子たちがいたことです。そしてもう一人、Saulという人物がいました。Saulは律法の厳格な順守を求めるパリサイ派として、Jesusを預言者だとするJames率いるところの教団を弾圧していました。また、出身地の関係でローマの市民権も持っています。しかし、教団の布教活動を追跡し、ダマスカスへ向かった先でSaulは突然、大きな衝撃と共に幻覚を見ます。それは天に昇ったJesusでした。あまりの衝撃の大きさにSaulはPaulと改名し、その体験を自らの中で整理するためでしょうか。アラビアへ向かいます。MosesやElijahの伝統に倣い、シナイ山にも登ったのではないかと“Paul and Jesus”にはあります。

それからPaulはエルサレムに向かいます。JamesとPeterに面会するためです。Jamesはさぞかし驚いたでしょう。自分たちを迫害していた人物が、自分たちの教えを布教したいと言っているのですから。Jamesはお目付け役にBarnabisという人をPaulに付け、Paul達は小アジアへ布教の旅に出かけます。

PaulはJesusの認めた使徒ではありません。Jesusが処刑の処刑はAD30~33と推定され、Paulの改宗はその数年後と推定されています。Paulが生前のJesusと接触することは両者の行動範囲から考えてありえないので、Paulは生前のJesusの言動はほとんど何も知りません。PaulはJamesの教団がJesusの復活を信じていることは知っています。ただ、Jesusについて知っていることはほとんどそれだけだと言って過言ではありません。ですが、Paulは自分の見た天上のJesusこそが真のJesusであると信じています。ですからPaulの中ではPaulの信じる天上のJesusが直接に語りかけた自分こそが第一の使徒です。また、PaulはMosesの教えの一派として、イスラエルの民に布教を進めたJesusやJamesと違い、初期からユダヤ人以外への布教を目指しました。Paulの目指しているものはJamesの目指しているものとはほとんど最初から異なっているように思えます。

数年後、Paulは再びエルサレムに向かい、異教徒に布教する際に障害となっていた厳しい戒律、特に割礼を遵守しなくてもよいという許可を取り付けました。JesusやJamesが説いているのはあくまでMosesの教えの一派です。割礼や食事の制限など厳しい戒律の順守は絶対です。ですが、ユダヤ人以外の他民族がユダヤ教を信仰しようとする場合には、他民族向けの比較的緩い規定があるので、それを適用したのです。James達にとって、これは戒律の軽視の許可ではありません。あくまで他民族に対する緩和措置に過ぎません。

しかし、Paulには天上から語り掛けるJesusがいます。現実のJesusとPaulの天上のJesusを区別するため、PaulはChristという呼称を彼の天上のJesusに使うようになります。PaulにとってはChristを信じることこそが全てです。Mosesの教えや戒律はPaulにとっては二の次です。やがてPaulはユダヤ教の戒律など重要ではないと説きだし、エルサレムの教団との軋轢を深めていきます。また、Jesusはローマによるパレスチナ一帯の支配の終焉を予言したのですが、これはローマの市民権を持ち、ローマに布教を進めようとしているPaulにとっては都合が良くありません。そこで、Jesusのいう王国とは現世ではない天上の王国であると読み替えます。教団としては、Paulの勝手を許しておくわけにもいかず、Paulの信徒団に使徒を派遣しては軌道修正にかかります。実在のJesusに関する正当性で言えば、Paulに分はありません。Jesusの兄弟や直に教えを受けた使徒たちにせっかく養成した信徒団を切り崩され、Paulは厳しい立場に追い込まれます。

二回目のエルサレム訪問から約10年後、Paulはエルサレムの教団にとうとう呼び出しを受けます。Paulの説いている内容が問題となったわけですが、Jamesは和解策としてPaulに清めの儀式を受けることを勧めます。しかし、儀式を終えたPaulはエルサレムの人々に拘束され、殺されようとします。エルサレムの人々にとってMosesの教えを軽視するPaulは許し難い存在だからです。その騒ぎに偶然通りがかったローマの兵士によってPaulは助け出されますが、今度はthe Egyptianという反逆者と誤認されてしまいます。施政官はPaulがローマの市民権を持っているのでローマへPaulを送ることとしました。嫌疑の晴れたPaulはローマで布教活動を行いますが、やはりエルサレムの教団からの切り崩しを受け、布教活動はPaulの思うようには進みません。

その後、Jamesは先に述べたエルサレム神殿の謀略により処刑され、教団は再びJesusの親族によって引き継がれます。もしこのまま大きな出来事がなければPaulの信徒団はエルサレムの教団に吸収され、エルサレムの教団と生前のJesusの教えはユダヤ教の一派として命運を保ったかも知れません。

しかし、エルサレムのローマへの不満は限界に達していました。AD66年エルサレムはローマに対して蜂起します。ローマの皇帝ネロは、直ちに反乱を鎮圧することはせず、とりあえずローマ市内において、反乱分子と思われる人々を投獄と処刑にかかります。これにより当時ローマにいたPaulとPeterは処刑されてしまいます。エルサレムの反乱はついにAD70年、完膚なきまでに叩き潰されます。ありとあらゆる建物は壊され、エルサレムのあった場所は文字通り真っ平にされました。ほとんどの住民は殺されましたが、一部は逃げ延びます。エルサレムキリスト教団もほぼ壊滅しますがトランスヨルダン辺りに逃げた人々もいました。

さて、皇帝ネロの弾圧を生き延びた信者たちにとっては事態は非常にまずいことになりました。何と言ってもJesusやJamesの教団の教えは反逆者の宗教です。ローマは反逆者の対してはとにかく苛烈です。単に棄教や改宗するだけでは、過去をつつかれて身の破滅です。そこで彼らは教えの中身自体を変えることにしました。反逆者の宗教から愛と平和の宗教へ、反ローマから反ユダヤ親ローマへ。基本的にはPaulの路線に従い、Jesusの王国は地上の王国ではなく、死後の天上の王国へ変更します。これにより、ローマの支配の終焉というJesusの願いは消え去りました。Jesusがイスラエルの王という意味で使っていた「神の子」という表現は、文字通りの神の子として扱うことになり、Christとして神格化し、エルサレムの神殿に乱入したJesusは徹底した平和主義者へ変更です。

Jesusを処刑したエルサレムの施政官Pilateは実際にはあまりにも現地の法を無視して、反乱分子を処刑しまくり、ゴルゴダの丘を文字通り頭蓋骨の丘に変え、何とかしてくれとエルサレムから正式の請願書がローマに出されるほどの人物でしたが、Mark、Mattew、Lukeと続く福音書では徐々に、Jesusを処刑したくはないんだけれどもユダヤの民のJesusを殺せという声に押されてやむなく処刑を命令した気の弱い人物として描かれることになりました。現実のPilateはJesusの処刑後もthe Samaritanが集めた人々を虐殺して問題になりローマへ呼び戻された後、ガリアへ送られました。

Jesusの母、Maryは「産めよ、育てよ、地に満てよ」の教え通り、Jesus、Jamesの他にもSimon、Matthewに何人かの娘も産み育てましたが、Jesusの神格化とヘレニズム文化の影響を受けて、処女懐胎でJesusだけを産んだことになります。

ですが、教えを変えるだけで十分でしょうか?そうではありません。彼らは変更した教えを布教にかかります。味方は多ければ多いほど良かったでしょう。私には、彼らがそうするに充分な切迫した理由があったと思われます。やがて、成立したキリスト教はローマの国教となり、ローマの支配を支えることとなります。

歴史の皮肉と言えば、現実のJesusがその解放を願ったユダヤ人はキリスト殺しの汚名を着せられ、その汚名はポグロムなど長く続くユダヤ人迫害の一因となりました。エルサレムの陥落を逃げ延びたJamesの教団の生き残りはEbioniteなどの名称で異端としてやはり迫害を受けることになります。また、これらの一派が死海文書など、Jesusの源流の教えを伝える文書を残すことになります。