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アラブの春

前回、中東に関する本を読んだことで、数年前にアラブの春と呼ばれる出来事があったことを思い出しました。

Shelly Culbertson, The Fires of Spring

この本はRAND研究所というシンクタンクに所属する著者が、アラブの春で大きな影響を受けた国々を巡り、政府の関係者、運動の当事者、市井の人々とのインタビューを通じて、アラブの春とはどんなもので、何をもたらし、これからどうなっていこうとしているのかを探ろうとした本です。対象になっている国はチュニジア、トルコ、イラク、ヨルダン、カタール、エジプトです。個人的にはシリアやリビアの事情も知りたかったのですが、危なすぎて無理だったのかも知れません。また、その国を代表するモニュメントや大きな事件のあった現場にもインタビュー時に足を運んでいるので実は観光案内にもなっていたりします。

最近の出来事を扱った本というのはジャーナリストの書いた物か、学者の書いた物に大別されるように思います。ジャーナリストの方は事件の起こっている現場で取材したり、報道に直に接しているためか描写が生々しくて臨場感があり、読んでいてワクワクします。反面、物事の関連や歴史、経済への目配りが行き届かなくて、何が起こったのかは分っても、なぜ起こったのかは判らないということになりがちです。学者の書いた本は出版されるのが遅かったり、表現が小難しかったりしますが、資料をよく読みこんでいる分、著者なりの展望があり、何か判ったような気にはさせてくれます。この本は両者の中間でしょうか。実際の出来事から数年たってのインタビューなので、臨場感こそありませんが、その分落ち着いて物事を振り返っている感じがします。学者ほどではありませんが著者も歴史や経済状況からも考えようと努めています。

さて、後にアラブの春と呼ばれることになる、多岐に渡る巨大な動きの最初の切っ掛けはチュニジア果物店を営む青年が焼身自殺を図ったことにあります。何がそこまで彼を駆り立てたのか実際の動機には諸説あるようですが、役人による嫌がらせや侮辱が引き金でした。この事件の何かがチュニジアの若者たちの心を捕えます。インターネットやマスコミを通じて事件が広まります。

チュニジアではフランスからの独立の英雄、ブルギバ大統領の下、開発独裁路線で経済の発展を図ります。1987年には老齢となったブルギバ大統領から無血クーデターの形でベン=アリー政権が誕生しますが、汚職や身内主義が蔓延し、経済も停滞していました。一方、平和が続いたことで、人口は急増しており、人口動態的には若年層が膨らんだ形になっていて、経済の停滞とも相まり、若年失業率は高い状態にありました。事件はこの層の社会への不満に火をつけることになったのです。

ベン=アリー大統領は病床にある青年を麗々しく見舞うことで、事件を自らの好感度アップに繋げようとします。この模様はマスコミで大きく報じられました。しかし、これは完全に逆効果になります。まさに「お前が言うな」状態で、怒り狂った若者たちは大統領の退陣を求めて、連日のデモに打って出ます。事態を収拾し切れなくなった大統領は国外へ逃亡し、総選挙の結果、イスラム主義勢力が政権を握り、長く続いた独裁に終止符が打たれることとなりました。

独裁の迫害の下では政権に批判的な勢力は軒並み駆逐されていて、かろうじて命脈を保っていたのがイスラム主義勢力だけでした。彼らが政権を握れたのは他に選択肢がなかったからとも言えるのですが、彼らとて現実的な政権運営が出来るほどの能力を有しておらず、協議の結果、世俗主義勢力との連立政権が成立し、その下で新憲法が出来ます。

オスマン帝国の崩壊の後、魔法のような手腕でトルコをまとめ上げたのがムスタファ・ケマル・アタチュルクでした。ケマルが採った開発独裁路線はチュニジアだけでなく、エジプト、シリア、リビアイラクなど多くの国のモデルとなります。しかし、長く続いた独裁で汚職や政治腐敗、経済の停滞が常態化していました。似たような問題を抱える国々にチュニジアでの革命が刺激を与えます。

革命の混乱と世俗勢力とイスラム勢力の間でテロが続いたにも関わらず、曲がりなりにも民主主義政体が安定化しつつあるチュニジアと異なり、エジプトでは革命後の選挙の結果成立したイスラム勢力が強権を振るおうとしたのを嫌って、軍がクーデターを起こし、再び独裁体制へ逆戻りします(その後、政権の中身は変わらないものの形としては民政に復帰)。リビアやシリアでは内戦が勃発する一方、地域の混乱と豊富に供給される武器、世俗勢力やイラクシーア派に迫害されるスンニ派の不満をくみ取る形で一時はISISが勢力を大きく伸ばすなど、「アラブの春」はその牧歌的な表現から大きく異なる様相へと変わっていきます。内戦の混乱から生まれる難民はヨルダンなど周囲の国のみならず、ヨーロッパの国々にも負担を与えています(もっともオスマン帝国の崩壊前後にヨーロッパ列強のやらかしたことを考えれば、個人的には同情する気には全くなれないわけですが)。

長く続いたオスマン帝国では、アルメニア人の虐殺があった末期はともかく、宗教や言語の異なる多くの民族がそれなりに平和に共存していました。しかし、ヨーロッパによる分割と植民地化、独立の過程で持ち込まれた国民国家という概念や宗教と政治の問題に中東諸国の多くは今も解決を見出せておらず、アラブの春の混乱はその生みの苦しみであるとも著者は指摘しています。

混乱の一方、カタールでは国民の政治参加は制限されてはいますが、豊富なオイルマネーを背景に地域の学問、スポーツなどの中心として大きく発展するなどしています。開発独裁もうまくやり続けることが不可能なわけではありません。ただ、石油は神からの贈り物であって、石油で得た利益は神に捧げるべきであるとの信念からカタールオイルマネーが中東でのイスラム原理主義勢力に供給され、諸国の混乱に拍車をかけるなどしました。

この本の執筆時2015年から現在に至ってISIS勢力はほぼ無力化、シリアの内戦もアサド政権が事態を掌握しつつあります。トランプ大統領イラクからの完全撤退を表明したことを受けてトルコがイラククルド人勢力へ攻撃を仕掛けますが、すぐさまロシアとの間で停戦の合意に至りました。トランプ大統領はこの件でマスコミからかなり叩かれましたが、事前に話は付いていた模様で、アメリカは中東から手を引き、中東の調停人はロシアが務めることになったようです。トルコではエルドアン政権が自国のクルド人勢力にはいち早く自治権を与えています。クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリア等に分かれて分布しているのですが、国境の変更は認めず、政治活動をやるなら、それぞれの国の中で自治権を拡大してくれというのが関係諸国のコンセンサスのようです。

著者が女性なこともあって、イスラムと女性の問題にもかなりのページが割かれています。イスラムの女性の真っ黒な衣装やヴェールは女性に対する抑圧の典型としてとらえる向きも多いのですが、当人達にとってみれば、あんまり抑圧されている感もなくて、単に民族衣装であったり、アイデンティティの一部であったりするようです。むしろ学問や経済、政治活動の機会均等が大きな問題となっています。

アラブの春は腐敗した開発独裁に一旦はノーを突き付けました。しかし、民族構成や宗教、経済問題によって大きく異なる国々では、その後、国家の安定や宗教との関連において新しい国の形を模索する試みが現在も進行中です。

 

 

最初はタイトルに惹かれて

Mark L. Haas & David W. Lesch, The Arab Spring: The Hope and Reality of the Uprisings

に挑戦していたのですが、著者が題材をうまくまとめ切れていないと感じたので途中で断念しています。

 

2020年1月3日、イランのコッズ部隊司令官、スレイマニ氏がアメリカ軍によって殺害されてしまいました。記事中の「アメリカは中東から手を引き」は誤りだったようです。謹んで訂正します。

 

 

 

イラン革命防衛隊

ウィキペディアを確認すると、2019年の6月のことだったようですが、ホルムズ海峡を通過中の日本のタンカーが攻撃を受けたという事件がありました。この時にアメリカが事件の首謀者として非難していたのがイラン革命防衛隊でした(事件自体はその後、誰が首謀者と確定することもなくうやむやな感じになっているようです)。

革命防衛隊、名前が格好いいです。ちょっと調べてみるとイランにはイラン軍という軍隊もあって2つの軍隊が共存している状態だとか。ナチスの親衛隊とドイツ軍みたいなものかしら?ということで本を読んでみることにしました。

Afshon Ostovar, Vanguard of the Imam: Religion, Politics, and Iran’s Revolutionary Guards

イランでは1978年の革命により、ホメイニ師を最高指導者とするイラン・イスラム共和国が成立します。革命におけるホメイニ師の権威は確立されてはいましたが、革命の混乱の中、イランの行く末を巡っては欧米風の近代化主義者やリベラル派、マルクス主義者などのグループが一定の影響力を持っており、混沌とした状態でした。

イランはイスラムシーア派が多数を占める国です。イスラム法が実生活に大きな影響を及ぼしており、古くはその解釈は地域の法学者たちにまかされていました。ですが法というものは強制力がなければ機能しません。そこで、地元の怖い人たちが法学者と組んで、前者は活動に対する権威付けを、後者は法の強制力を得るという関係が長く続いてきました。

革命時においてもその伝統に倣い、つてのある幾つかの組織を束ねイスラム革命の成果であるイスラム法と法学者による支配を守るために結成されたのがイラン革命防衛隊です。結成当初はもともとの組織の地盤で活動し、イスラム化を阻害するようなマルクス主義者などのグループを抑圧したりしていました。もともとの組織の利害関係も引きずったままですから不祥事なども頻発していました。また、この頃は軍と言えるような戦闘能力はなく、組織内部でもイスラムの友愛の精神に倣い、上下関係を極力排除していました。

革命防衛隊に大きな転機が訪れたのは革命の後の混乱を狙い、隣国のイラクが攻め込んできてイランイラク戦争が始まってからです。出来たばかりの革命防衛隊とは違い、イランには親米だったパフラヴィー王朝の時から存続するイラン軍があります。イラン革命時には親米のシンパがいるんじゃないかと革命の指導部には疑いの目を常に向けられる存在ではありましたが、国を守るための戦闘力としてはその能力に頼らざるを得ません。近代兵器の扱い方など軍隊としての能力はイラン軍のほうが明らかに優れています。特に革命を指導したホメイニ師から遠い、実務を担う政府側にはイラン軍を重く見る傾向が強くありました。しかし、戦争が長引き、兵員が不足するにつれ、革命防衛隊も徐々に戦場に進出していきます。ゲリラ戦で相手を撹乱する役割や後方の輸送や防御の任務から始まり、イラン軍が主に近代兵器を使う一方で歩兵戦力を受け持つなど次第にイラン軍を補完して戦うようになります。戦争初期の失敗を政府内のホメイニ師に遠いグループに押し付けることにも成功し、イラン革命防衛隊の軍としての地位も戦争を通じて向上していきます。

ここで少しシーア派(12イマーム派)の話をします。イスラム教の創始者ムハンマドの死後、その血を引くアリーが後継者に押されますが、実際には教団内の実力者であったアブー・バクル、次にウマル、ウスマーンと指導者が継承され、アリーが指導者の地位に就いたのはようやくその後でした。このアリーを正統なイスラムの指導者であると認め、彼の血統以外は認めないとするのがシーア派の立場です。しかしこの後、アリーが暗殺され、アリーの残した兄弟のうちの弟のフサインが当時のカリフ、ウマイヤ朝に叛旗を翻すも、カルバラーの戦いで殺されてしまいます。シーア派の人たちとしては、多数派のスンニ派に自分たちの信奉する指導者を無残にも虐殺されてしまい、自分たちは何も出来なかったという悔恨と、一方でムハンマドの血統を信奉するシーア派こそが正当なイスラムであるとの自負が残されることになりました。ですので、イランは時にイスラムの連帯を語りつつ、場合によってはスンニ派をinfidel(不信神者、異端者)と非難することに躊躇いはありません。

イラクは国民の多数派こそシーア派ですが、指導者層はスンニ派、しかも世俗化されています。堕落した異端者が攻めてきたのです、まさにカルバラーの戦いの再現に他なりません。戦争はすぐさま聖戦の色合いを帯び、戦いで死んだ者は天国へ行けることになります。当時はイラクアメリカと関係が良く、一方でイランは親米のパフラヴィー王朝を倒して成立し、またイランのアメリカ大使館襲撃事件などがあり、アメリカとの関係は最悪です。しかも米ソの対立から距離を置く第三国路線をもって任じていたので、大っぴらにソビエト側に助けを求めるわけにもいかず、軍備の調達能力には大きな差がありました(イランーコントラ事件は喉から手が出るほど軍備の欲しいイランの事情によるものでもあります)。しかし、イランは多少の犠牲などものともしない宗教的熱意によって劣勢を跳ね返し、逆に攻勢に出ることに成功します。

近代的な軍備が不足するので、いかんせん人海戦術に頼らざるを得ないのですが、そのためには多数の兵士が必要です。政府やマスコミと共に革命防衛隊とその下部組織であるバスィージ(basij)は兵士の募集に努め、数多くの兵士を受け入れて規模が拡大していきます。小さな頃から物語に聞いたカルバラーの戦いを実際に体験してみようと募集に乗った若い兵士が「天国への鍵」と印刷されたネックレスを渡され、ろくな訓練も受けないままに戦場で使い潰されていく様子は背筋の凍るものがあります。

欧米諸国はイランが少年兵を使うことを非難しますが、イランにとっては軍備が乏しいところでの苦肉の策でもあり、国民の宗教的熱意の表れでもあり、むしろ誇らしいことですらあります。逆に欧米諸国はイラクが毒ガス兵器を使用することについてはことさらに騒ぎ立てることはしません。

イラクへの攻勢ではいくつかの重要な戦果はあったものの、戦争が長引くにつれ軍需物資の不足はいかんともしがたく、イランは停戦を決意、8年もの長きに渡ったイランイラク戦争はようやく終わりを告げます。戦争が終わると問題になるのは復員兵の処遇です。イランは復員兵を重点的に産業に配置し、政府の事業を優先的にこれらの産業に配分することで多くは革命防衛隊である復員兵に報いることにします。かくして革命防衛隊は産業分野でも政府と結びついた大きな影響力を獲得することになります。

革命防衛隊の下部組織であるバスィージはイラク戦後、文化的な側面すなわちイスラム的な価値観を国民に対する浸透、維持させる役割や各地域での道徳警察の役割、また選挙においては選挙の監視も担うことになり、地域における存在感を増していきます。2009年の大統領選挙では事前の予想や出口調査などの結果を大きく覆して現職が当選し、あからさまな不正選挙が疑われましたが、この不正選挙に加担したのがバスィージということになっています。革命防衛隊が徴募兵と募集兵の混成であるのに対し、バスィージは自ら志願した募集兵のみの構成で、入隊に際しての身辺調査も行われることになっています。そのため、バスィージのほうが革命防衛隊よりも隊員の思想的純度が高いとされています。

また、コッズ部隊(Qud Force)も創設され、イラン国外において様々な勢力の支援を通じてイランの国益の増進を図ることになります。レバノンヒズボラなどイスラムシーア派の組織の支援が主流ではありますが、中にはパレスチナハマスなどスンニ派の組織も含まれます。イラン国外の暗殺活動や破壊活動の主体となっているのもコッズ部隊で、イスラエルモサド、イギリスのMI6、アメリカのCIAを相手に要人の暗殺や逆にイランの核物理学者が暗殺されてしまうなど、ゴルゴ13もかくやといった活動が行われます。

イランイラク戦争の後も中東では激変が続きます。第一次、第二次湾岸戦争によってイラクフセイン政権はアメリカによって倒されます。イランはイラク国民の大半を占めるシーア派の支援によってフセイン後のイラク政権に影響力を持つことに成功します。イラク国内で迫害の憂き目にあったスンニ派がISISを樹立し、一時は勢力を拡大しますが、ISISの行き過ぎた行いもあってここではアメリカとイランは協力してISISの鎮圧を行うことになります。

シリアでは長年の盟友であったアサド政権が危機に陥り、シリアは内戦になりますが、ここではイランは独自の支援を続けると同時に従来からの第三国路線を捨てて、ロシアに支援を要請することでアサド政権側の強化を図ることに成功します。

このようにイランの周辺で起きる事態に積極的に対応することで中東地域におけるイランの存在感は今や増す一方なのですが、これらの活動の中心を担っているのが革命防衛隊の下部組織であるところのコッズ部隊です。

革命防衛隊は政府ではなく、最高指導者であるところの法学者(イマーム)に直属します。現イマームはかつて神に隠されたイマームが再び神に還されるまで、代理としてイスラムの指導にあたっているのであり、最も神に近い人物であります。その為、本の最後のほうに、革命防衛隊は自らが神性を帯びていると認識しているとの記述があります。この辺の感覚はむしろ旧日本軍に近いのではないかとも思います。かつて現人神であらせられた天皇に直属する軍隊として皇軍すなわち神の軍隊を自称していたわけでもありますから。

さて、イラン・イスラム共和国の大きな特徴はイスラムイマームの支配です、この革命の成果を守るため、革命防衛隊は創設されました。国内外での戦争や紛争の度に勢力を拡大し、ミサイル部隊や核兵器の開発、ペルシャ湾防衛も革命防衛隊の管轄に入りました。イラン国内の産業を牛耳り、バスィージを通じて国民を統制、文化道徳を守り、国外ではコッズ部隊が闘争を繰り広げます。まさにイラン・イスラム共和国を代表する組織と言って過言ではない、それがイラン革命防衛隊なのです。

 

えーと、イラン軍についてはこの本ではイランイラク戦争時を除いて、ほとんど言及がないのでどうなっているのか分かりません。この本を読む限りでは、正直なところ存続しているのが不思議に思えるくらいです。

アメリカの製造業

 何かの記事で、トランプ大統領の施策の結果、アメリカの製造業で雇用が戻りつつあると目にしました。ラストベルトと呼ばれる地域の惨状も気になるところではありましたので、本書に手を出してみました(アメリカの製造業の国内回帰については中国の人件費の高騰が主要因でトランプ大統領の施策は二次的という声もあります。ただ、その中国への圧力やメキシコからの不法移民対策など、従来より踏み込んだ姿勢について、旧来の民主党を支持してきた労働組合の活動家から戸惑いの声も聞かれるという記事も見たことがあります)。

Chad Broughton, Boom, Bust, Exodus: The Rust Belt, the Maquilas, and a Tale of Two Cities

イリノイ州ノックス郡ゲイルスバーグという都市でこの地の雇用を支えていた家電製品の製造会社Maytagが、北米自由貿易協定(NAFTA)と当時の経営思想の影響により、工場をメキシコのレイノサに移転することになります。メキシコの安い労働力とマキラドーラと呼ばれる様々な企業誘致の為の優遇政策が企業の競争力を高めるというのが移転の理由でした。

工場の閉鎖に伴い失業したゲイルスバーグの人たち、メキシコの工場で働くレイノサの人たち、そのレイノサへ移住してくるメキシコの農村部の人たちなどを十数年に渡って追ったのが本書ということになります。

国際貿易学では自由貿易は良いことであると習います。国同士が貿易する際には比較優位の原則に従い、お互いが得意な分野に注力することで結果的に双方ともが利益を得ることになっています。メキシコは安い労働力を提供し、アメリカは完成品を安く手に入れることになるわけです。また、変化し続ける世界で企業活動が時流に合わなくなることがあるのは避けられないことです。それは全体としての効率を上げるためには逃れられない過程でもあります。労働者は不本意な失業に際しても、再訓練などを通じてキャリアの転換に努める必要があります。

ただ、世の中というのは本当に教科書通りにはいかない。このことが本書を読んでいる時に常に頭をよぎっていました。40近くにもなって学校や職業訓練校へ通ったりするのは大変です。しかも、勉強して資格をとったとしてその資格が生かせる職があるかどうかも不明です。ゲイルスバーグの人たちもうまくやっていった人もいます。ただ、やることなすことうまく行かず、運にも見放されて半身不随になった人もいて身につまされます。

あまり知識はないのですが、日本と比べるとアメリカの再訓練プログラムはかなり充実している反面、生活保護は明らかに見劣りします。食べていくだけが精いっぱいな金額がフードスタンプで貰えるだけなようです。ただ、貧乏人御用達のトレーラーハウスは中古だと数も豊富だしお値段もお安く最低限の住居には困らないようです。私個人も独身一人暮らしだと将来はトレーラーハウス暮らしになりそうなので、その点は気になりました。

レイノサの方では、賃金は高くはないものの安定した職と教育の機会を求めてメキシコの農村部から労働者が流入し続けます。しかし、安いだけの労働力として使い潰そうとする企業文化や地方自治体に財源の残らない税制のもと、劣悪な労働環境やスラム化する都市など新たな問題が発生し続けます。賃金の増加は流入するドルによるインフレと相殺され、実質賃金はずっと低いままですし、高い転職率によって労働者のスキルも向上することがありません。ゲイルスバーグからレイノサへ工場を移転したMaytagは製品の信頼度の低下により同業他社のWhirlpoolへ身売りすることになります。レイノサでは行政の能力が低下し続ける中、麻薬カルテルが勢力を伸ばし、街の治安は悪化の一途を辿ります。

一方、雇用を生むならどんな企業でも誘致するという姿勢を取らず、誘致する企業としっかり話し合い、街と共に歩んでくれそうな企業に絞って誘致し、しっかりとインフラを整え発展を続ける都市もあります。経済学は理屈は正しいのかも知れません。しかしその理屈を実現させるためには経済学だけでは駄目で、きめ細かい政策が必要となってきます。

メキシコについては、レイノサなどの国境周辺の都市を超えてアメリカで不法移民となる人も何百万人といます。アメリカの農業というと大規模で機械化された農業という印象が強いのですが、穀物については機械化されていても、野菜などはメキシコからの合法的な季節労働者やこれらの不法労働者に支えられている部分がかなりあります。以前に、youtubeアメリカの農業の野菜の収穫の動画などを好んで観ていたのですが、画面の端々に映る面白くなさそうな顔で黙々と働く人たちはメキシコからの季節労働者だったのかと気づきました。

本書はオバマ大統領の2期目辺りで終わるのですが、ゲイルスバーグはオバマ大統領にとって、演説でしばしば言及するほどお気に入りの場所でした。オバマ大統領もアメリカの雇用を重視し、労働者のキャリア再編の為の教育プログラムの充実に力を入れました。反面、NAFTAを推進したクリントン大統領と同様にアメリカの産業の空洞化を促進した層との繋がりが強く("Listen, Liberal"でも同様の主張が行われていました)、オバマ大統領の雇用重視の姿勢は見せかけであるなど、この本でのオバマ大統領への評価は賛否両論を併記しています。

失業というのは、個人個人にとってみれば本当に大きな出来事だったりします。場合によっては何年もかかって気付いてきた経験や技術を無にして一からやり直さなければならないこともあります。もちろんそういう個人の努力の集大成で社会が少しづつ変化していくのでもありますし、ある意味必要な過程でもあります。ただ、政策の失敗でまだまだ戦える企業が倒産したり、国外へ出ていかなければならない事態は国民にとって悲劇であり、悪夢です。反面、少し前に話題になった実質賃金の低下は被雇用者がほんの少し平均して貧しくなったことを意味しますが、それが個々人の大きな悲劇かと言えばそうでもありません。経済指標が内包しているドラマはそれぞれ大きく異なっています。願わくば、政府のもっとも重視する経済指標が、実質賃金などではなく、失業率や総雇用者数であって欲しいと心の底から思う次第であります。

アルジェリアの独立

ベトナムのフランスからの独立について読んだので、次は同じくフランスからの独立を果たしたアルジェリアについて読んでみました。

Martin Evans, Algeria: France’s Undeclared War

私事になりますが、三十数年前にサハラ砂漠を見にアルジェリアに行ったことがあります。初めての海外旅行でした。その頃はサハラ砂漠の真ん中の町、タマンラセットも安全で、日本人のバックパッカーもかなりいました。もっともその頃から「そろそろ治安が悪化してこの辺りの旅行は出来なくなるかも知れない」という噂は流れてはいました。その後、クーデターやら内戦やらが続き、現在でもイスラム原理主義勢力との紛争の影響で、タマンラセットは渡航中止勧告地域に指定されています。

旅行は大変楽しかったのですが、アルジェリア自体は豊かとは言えず、隣のチュニジアに入った時にレストランの食事がいきなり豪華になったのが印象的でした。

さて、アルジェリアもフランスの植民地になっていたわけですが、その独立の過程は大きく異なります。ベトナムとの違いは、まず何よりも地理的な近さが挙げられます。地中海を挟んで反対側、フェリーに乗って一晩で渡れる距離です。アルジェリアへのフランス人や他のヨーロッパ人入植者も多く、逆にフランスへのアルジェリア人の出稼ぎや移民も多い。人的にも政治、文化的にもフランスの影響はベトナムに比べてさえもかなり強いです。次にイスラムの影響が挙げられます。ベトナムは仏教国ですが、独立に際して仏教が国をまとめる力になったという印象はありませんでした。ところがイスラムでは違います。フランス人はイスラム教徒を迫害する異教徒という扱いになります。イスラムにとって異教徒に支配されることは例え万が一それが善政であったとしても屈辱に他なりません。さらにベトナムと違ってアルジェリアの隣国に東側の国はありません。冷戦構造に組み込まれることはありませんが、大規模な武器の購入や兵士の訓練などでの支援は見込めません。

第一次、第二次世界大戦を経て、アルジェリアでも植民地からの独立運動が起こります。しかし、頑強にその動きに抵抗したのが後にピエ・ノワールと自称することになるヨーロッパ系入植者たちでした。この人たちが強いのなんの。植民地支配下における圧政や入植者による利権の独占、二等市民としての日常的な差別などの理由でアラブ系住民がテロ事件を起こそうものなら、ヨーロッパ系入植者は自警団を作って倍返しします。フランス本国が独立運動に融和的な姿勢を少しでも見せようものなら、本国にも圧力を掛けます。1956年2月に当時のフランスの首相ギー・モレがアルジェを訪れた際には群衆が彼を取り囲み、トマトや土くれを投げつけまくるという事件まで起こします。小説家のアルベール・カミュはヨーロッパ系とアラブ系の融和を主張しましたがこういった人はごく少数派です。

フランスは独立を求めるアラブ系住民とそれに反対するヨーロッパ系との板挟みにあいます。出てきた方針は、独立についての交渉をするなら、まずはテロを止めろ、出来ないならテロに対しては断固として取り締まり、その間アラブ系に対しては融和的な政策をとって出来るだけ支持を取り付け、来るべき独立についての交渉ではフランスに有利な形に持っていく、というものでした。独立運動の側は一向に進展しない事態にしびれを切らし、急進派が民族解放戦線(以下FLN)を組織し、より武力闘争というかテロに舵を切っていくことになります。ちなみに今はアルジェリア戦争という呼び方になっていますが、実際にはテロとその報復、対テロ作戦の連鎖が続いているだけで、軍隊による大規模作戦といったものは、一度も行われていませんでした。

テロへの対策ですが、アルジェリアの治安の維持には現状いる警察では手が回りません。フランスは軍に治安の権限を渡し、本国では予備役を招集してアルジェリアに送り込みます。相手がテロリストですから容赦はありません。容疑者に対しての拷問による自白の強要は日常茶飯事です。FLNも対抗はしますが、軍事的にはフランスの勝利といってもいい状態になり、独立間際の時点では国内のFLNの勢力は壊滅、隣国のチュニジアなど国外へ追いやられます。

一方の融和政策はあまり芳しくありません。アラブ系に対する教育の充実や女性の解放などを掲げますが、ヨーロッパ諸国には受けのいい政策でもイスラム教を信仰するアラブ系に受けがいいとは限りません。また、FLNではフランスに協力するアラブ系はフランス人より悪いという認識なので、フランスに協力しようとするとFLNに殺されてしまいます。テロ対策で交通喚問なども厳しくなります。テロへの協力者がいるかも知れないという意識からどうしても扱いは荒くなり、日常的な差別が頻発します。村落ではFLNの浸透を防ごうと、急ごしらえのキャンプ地への強制移住が行われますが、長年慣れ親しんだ土地から切り離された不満が溜まっていきます。

 ここでフランスからの独立までのベトナムと比べてみます。それほど政治意識の高くない村落ではフランスに付くか、独立勢力に付くか、決めかねている時期がありました。そこでホーチミン率いるベトナムの独立勢力は教化のために勉強会を開いてみたり、パンフレットを作ってみたり人々の支持を得るために色々と頑張る必要がありました。アルジェリアでは違います。フランスへの協力者と見なされるとFLNのテロの標的になり、かといってフランスへ協力しないとテロ組織への協力者と疑われて嫌がらせや拷問を受けたりします。ベトナムでは趨勢がはっきりするまで、日和見を決め込むこともできたものが、アルジェリアではどちらについてもつかなくてもサバイバルを強いられます。フランス政府が1962年に出した数字によれば、独立闘争開始から独立を認めるエヴィアン協定まで、アラブ系アルジェリア人の犠牲者は1万6千人強に対してフランス人は3千人弱と、FLNの標的がまずはアルジェリアの裏切り者、それからフランス人という順序だったことが判ります。

アルジェリアの独立問題が長引くに連れ、フランス本国での懸念も増していきます。予備役の招集という形で身近な人たちがアルジェリアに送られ、一方でテロ容疑者に対する残忍な拷問や虐待が新聞や雑誌にリークされ大きな社会問題になるなど、アルジェリアを植民地として維持すること自体が大きな負担として考えられるようになってきます。1960年アフリカの年を経ると、植民地というイメージもよろしくありません。諸外国からの圧力も強くなります。サハラ砂漠に開発した石油やコンゴなど他のアフリカ諸国を抑えるうえでアルジェリアは地理的に重要だなどの植民地維持派の論点も次第に押されていきます。

これに対してあくまでアルジェリア独立を阻止しようとするヨーロッパ系入植者たちは暴動で対抗します。事態の収拾を任されたのはド・ゴールでした。首相就任後、アルジェの総督府での演説では「私は諸君を理解した」と述べ、入植者たちからは好意的に捉えられたド・ゴールでしたが、その後じりじりと政策を転換、アルジェリアの独立承認へ向かいます。この裏切りに入植者たちは秘密軍事組織(以下OAS)を作って対抗、アルジェリアのみならず、フランス本国でもテロの嵐を巻き起こします。1961年にはアルジェリアの独立を阻止しようと軍の一部がクーデターを起こし、失敗するなど混乱が続きます。

この頃、アルジェリアの独立勢力はほぼ国外に脱出していて、暫定政府なるものを作ったり、国外からテロの指示を出したりしています。実態のある組織として残っているのはFLNくらいしかありません。そこでド・ゴールFLNに和平交渉を呼びかけ、1962年3月エビアン協定を締結し、アルジェリアの独立を承認します。

アルジェリアの独立によって、ヨーロッパ系入植者は大挙フランスへ帰還します。経営のノウハウや技術を持った入植者たちがいなくなることでアルジェリアは経済的には大きな打撃を受けることになります。最もかわいそうなのはフランスによって組織された現地軍として戦ったアラブ系の兵士で、独立後、ド・ゴールには彼らはアルジェリア人だからという理由でフランスには受け入れてもらえず、アルジェリアで裏切り者として粛清を受けることになります。

さて現在、マクロン氏を非難するパリの週末の暴動は参加者が当初の28万人から最近では1万人規模に激減し、ようやく沈静化が見えてはきました。私などは芸術の都パリなどというイメージから大変驚いていたわけですが、これは私が間違いだったようです。アルジェリア独立の過程において、フランス人を中心とするヨーロッパ系入植者は何か要求があれば、即座にデモや暴動に訴えかけます。報復のリンチやテロ行為にも積極的です。フランスの官憲はこれに対して力で抑え込もうとします。こういった歴史が少なくとも1970年に入るまで繰り返されてきたわけで、フランスはもともと日本基準ではかなり暴力的な面のある国だったんだという印象を受けました。

それからアルジェリアに対する融和政策の失敗にも触れておきたいと思います。国を挙げて取り組んだ融和政策が結局は失敗したのに、なぜまだ多文化共生などという幻想に引きずられるのか理解に苦しみます。もっともアルジェリア戦争はフランスでは黒歴史扱いで、冷静な検証が行われてこなかったという点はあるのかも知れません。

ベトナムの独立

Fredrik Logevall, Embers of War: The Fall of an Empire and the Making of America’s Vietnam

ベトナム戦争と言えば、北ベトナム南ベトナムを支援するアメリカによる戦いを指しますが、なぜそういう構図になったのか、そこに至る経緯を、第二次世界大戦中にフランスが日本によってベトナムから追い出された辺りから描いているのが本書です。

第二次世界大戦までベトナムはアジアにおけるフランス植民地の中心的存在であり「極東の真珠」と呼ばれた存在でした。天然ゴムなどの資源に恵まれており、フランスからの移住者も多く、ハノイにはフランス風のカフェや香水店が立ち並ぶ目抜き通りがありました。

しかし、本国フランスはドイツの侵略を受け、あっさりと敗北、親ドイツのヴィシー政権が樹立します。ベトナムのフランス支配も日本からの圧力を受けます。ベトナム国内に日本軍の駐留を許すことで何とか続けようとはしますが、敗戦間近になり、何とか物資を確保しようとする日本軍によりフランスはベトナムを追われます。

さて、日本の敗戦が確定的になると、ベトナムには権力の空白状態が生まれます。フランスはベトナムの植民地支配を続行しようとしますが、敗戦間近の日本にさえ追われたフランスの姿を見たベトナム人には独立の実現性が見えていました。ホー・チ・ミンの指導の下、ベトナム8月革命によってベトナム民主共和国が樹立します。

興味深いのはアメリカとの関係です。第二次大戦以後、世界に大きな影響力を持つのはアメリカであるという認識から、ホー・チ・ミンアメリカの援助を願っていました。ホーは第一次世界大戦後のパリにアメリカのウィルソン大統領に請願に行っていたこともあり、アメリカの反植民地主義、民族の自由と自決を尊重するという立場に大きな期待を寄せていたのです。ベトナム民主共和国の独立宣言にはアメリカ独立宣言からの引用が数多く見られます。

しかしアメリカは戦後のヨーロッパにおいてフランスとの協力関係を必要としたことから、フランスを支持します。ソヴィエト連邦中華人民共和国もヨーロッパ情勢を重視し、フランスとの関係悪化を避けるためにベトナム民主共和国の承認をせず、民主共和国は孤立無援となります。フランスとの長期の交渉はフランスがベトナムの分割統治を進めたことから決裂、かくしてベトナム独立戦争が始まります。

ホー・チ・ミン共産主義者ではありますが、共産主義国家を作ることが第一目標ではありません。あくまでベトナムの独立、植民地からの解放が第一です。そのために共産党を一時解散して幅広い国民の支持を集めようともします(この動きはスターリンの不興を買い、スターリン存命中はソビエトとの関係はぎくしゃくします)。中国はその国境に共産主義国家が出来ることは安全保障上大歓迎なので国家の承認はしてくれなかったものの部隊の訓練や武器の購入などの支援をしてくれます。後に触れるフランスへのアメリカの支援に比べれば、微々たるものではありましたが。

困ったのがフランスです。帝国の面子と威信にかけて、植民地としてのベトナムは是非とも維持したいのですが、第二次世界大戦で大きな被害を被った結果、戦争に必要な人員も物資も資金もありません。援助を求める先はもちろんアメリカです。ただ、正直に植民地を維持したいので援助してくださいと言えば、明らかに断られます。ですので、当時の共産主義戦力の伸長に乗っかって、ここでベトナムの共産化を防がないと東南アジア全域が共産化の危機にさらされますよ、豊かな天然資源も共産圏の手に落ちますよ、ベトナム自由主義陣営の橋頭保であり、ここで我が国フランスを援助することは自由を守る戦いなんですよ、と後にドミノ理論と呼ばれる論理を展開します。

アメリカはこれに乗ります。赤狩りマッカーシズムとも言われる極端な反共産主義が全盛でもありましたし、中国国民党の敗北による中国の共産化、朝鮮戦争の不明瞭な結末が記憶に新しいところでは、アメリカの国内政治として、反共の為の協力を惜しんだと非難されては次の選挙が危なくなります。ヨーロッパの安定の為にフランスの協力は欠かせないという事情もありはしましたが。かくしてフランスは植民地の維持の為にアメリカの援助を必要とし、植民地に反対するアメリカは国内事情的にこれを援助するという些かねじれた協力関係が出来上がります。アメリカはこの後フランスがベトナムから撤退するまで事あるごとにフランスの作ったベトナムの傀儡政権の自治権拡大を要求し続けることにもなります。

さて、長いゲリラ戦と幾つかの会戦、クライマックスのディエンビエンフーの戦いを経てジュネーブ協定が結ばれ、ベトナム民主共和国が北緯17度より北を統治することが決まります。アメリカとしてはこれ以上共産勢力に領土を与えるなど許されないとして、交渉の決裂に持っていきたかったのですが、肝心のフランスがやる気がなく、このまま続けても戦局も思わしくないのが判ってきたので、交渉の結果を甘受することにします。しかし、この結果生じたベトナム共和国南ベトナム)はアメリカにとって理想の舞台となります。フランスが撤退し、植民地からの独立を果たした、共産主義と戦うベトナムの誕生です。

ジュネーブ協定ではベトナムの分割統治を永続化させない為に総選挙を行うことが明記されていましたが、選挙などをやるとホー・チ・ミンが勝ってしまうので、アメリカも南ベトナムもこれを無視します。南ベトナムを率いるゴ・ディン・ジエムは当初の政権の危機を乗り越えた後、統制を強め、身内びいきや汚職は目を覆わんばかりですが、これもアメリカは無視します。代わりにアメリカはジエムを優れたリーダーと囃し立て、アメリカに国賓として招いては大パレードを行ったりします。アメリカ政府は共産主義と戦うアメリカというポーズが国内政治の為に必要です。その為にジエムは理想のリーダーであってもらわなくては困るのです。

北ベトナムが総選挙が行われなかったことや南ベトナムの腐敗に引きずられる格好で徐々に浸透と侵攻を始めたとき、アメリカはすでに南ベトナム軍の訓練の遂行や作戦に同行することで軍事的な協力体制を深めていました。トンキン湾事件後、アメリカの議会が大統領に東南アジアでの派兵の権限を与え、公式にベトナム戦争が始まるのですが、それまでにかなりの地上部隊がベトナムに展開し、損害も出ています。ただ、この流れは第二次世界大戦以降、アメリカの政治事情やメディアが営々と作り出してきた大きな流れによるものであって、そう簡単に止められるものではありませんでした。

 

ディエンビエンフージュネーブ協定

北ベトナムとの講和会議の前に北ベトナム軍に大打撃を与え、交渉を有利に進めたいフランスが立案したのがラオス国境に近いディエンビエンフーにて要塞を構築し、北ベトナム軍の侵攻を撥ね退けるという作戦でした。フランス軍は、現地住民の協力も仰げず、地の利も生かせませんが、装備において勝ります。フランス軍が大きな戦果を挙げられたのは、防備を固めているところに北ベトナム軍が侵攻してきたときだけでした。ディエンビエンフーには滑走路もあり、制空権を持っているフランスなら空輸でも物資を運べます。似たような状況で北ベトナム軍に痛撃を与えたNa Sanの戦いがあり、この拡大再生版を狙います。

北ベトナム軍を率いるヴォー・グエン・ザップはフランスの賭けに乗ります。こちらも講和会議を有利に進めるために判りやすい戦果が必要です。この講和会議の為の最後の大規模な対決という舞台設定がディエンビエンフーの戦いの特異なところだと思います。後世の評論家からは周りを山に囲まれたディエンビエンフーに陣地を構えるのは山に据え付けられた大砲からの射ち下ろしに会うので愚の骨頂と評されてしまうことも多いのですが、著者の見立ては異なります。理屈ではそうかもしれませんが、山の斜面に大砲をふもとからほぼ人力で運んできて据え付けるのは恐ろしく困難で、大規模な砲の運用は北ベトナム軍には不可能と判断したフランスの判断は理のないことでもありませんでした。北ベトナム軍の努力と根性がそれを達成してしまったわけではありますが。

著者はそれよりも、陣地の構築に問題があったと指摘します。司令部と補給のための命綱でもある滑走路を守るように配置した九つの陣地(特にイザベラ)は離れすぎていることもあり互いの連絡が良くありませんでした。要塞化にしても、厭戦気分の拡がる本国を意識して連日、政治家やジャーナリストの視察、政治宣伝が行われ、肝心の陣地の構築がおろそかになっていた感があります。

また当時のフランス軍ならではの問題がありました。制空権を持っているとは言っても中身はアメリカ頼りです。議会を慮って単独での介入を避けたいアメリカは民間人のパイロットという形でフランスに協力してくれたりしますが、いちいちアメリカにお願いしに行くようでは航空部隊の効率的な運用などおぼつきません。フランス軍の中身にも問題があります。第二次世界大戦で弱体化したフランス本国では、厭戦気分も相まって兵士を大量にベトナムに送り込むなど不可能です。仕方がないので外人部隊やフランスの他の植民地、北アフリカなどから軍を送り込むのですが、どうやっても士気に問題があります。中には全滅するまで戦った部隊もありますが、途中で戦線を離脱し、目立たないところで日和見を決め込んだ人たちも数千人規模で存在しました。アルジェリアなどフランスの植民地支配が厳しい所で食い詰めて、軍に入ったものの何の因果で他所の植民地が独立するのを防がなければいけないのか、戦うことに意味が見いだせないのもうなづけはします。

かくして北ベトナムディエンビエンフーの戦いに勝利して、ジュネーブの会議に挑みます。しかし、結果は戦局から判断するよりはるかに北ベトナムには厳しいものとなりました。北ベトナムの希望よりも国境線は北に上げられ、総選挙の予定もかなり繰り下げられました。結局、アメリカが軍事介入を匂わせ、アメリカとの対決を望まないソビエトや中国が北ベトナムに譲歩を促すことになったからです。ベトナム地域大国ではあるのですが、アメリカやソビエトとの格差の違いに涙を飲むこととなりました。

ソヴィエト連邦の崩壊 その後

Roy Medvedev, Post-Soviet Russia: A Journey Through the Yeltsin Era

著者は政治家兼文筆家で反エリツィン派の人です。本の記述にも政策の失敗を糾弾する色合いが強いです。エリツィンによる議会派への砲撃事件の記述は生々しい。

 

Chris Miller, Putinomics: Power and Money in Resurgent Russia

著者はアメリカの経済学者でThe Struggle to Save the Soviet Economyの著者でもあります。

 

ゴルバチョフが支持を失った後、ロシア共和国の大統領となったエリツィンは他の共和国の大統領との密議を経てソヴィエト連邦の解体を宣言します。エリツィンはその後、ガイダーという若手の経済学者を経済改革のトップに据え、価格統制の撤廃、国有企業の民営化や資産の払い下げなど矢継ぎ早の改革に着手します。改革はIMFなどのアドバイスも取り入れたものだったのですが、結果は散々なものでした。生産の低下や高率のインフレに悩まされ、ソヴィエト時代の年金は吹き飛び、手厚かった公共サービスは軒並み縮減されます。インフレは1992年だけで最も低い推定値で2500%、高いもので10000%、つまり価格は25倍から100倍に跳ね上がりました。生産は20%以上下がり、特に農産物で低下しました。

そもそも計画経済での工場は集約化が進んでいます。競争のない独占状態が通常なのです。地方都市に単一製品を製造する巨大な工場があって、そこでソヴィエトの決められた地域の供給全てを担当していたりします。だからちょっとでも歯車が狂うと国内では代替が効かない。

国有企業の民営化も、もともとは国民の財産だからということで企業の所有権をバウチャーとして国民に配ってみる、その工場の労働者からなる委員会に譲渡する、入札制度で一括で売却など幾つかの方式で民営化を進めますが、スピードを重視するあまり、適切な所有者がきちんと経営を行うという状況にはなりません。バウチャーは配当がろくに入ってこないので、投げ売りする人が続出します。捨て値だからとそれらを買い集める人が大工場の所有者になって、工場を放置状態にしてたりします。労働者委員会方式では、かつてのソヴィエト方式で旧態依然とした経営を続け、変化に対応できません。

大混乱ではあるのですが、本によってこのあたりの解釈はかなり異なります。Medvedev氏は拙速な政策の誤りを糾弾し、計画経済を一部残したままの部分的な自由化や経済特区によって価格を自由化した場合の影響を測るべきだったとします。中産階級を育ててから本格的な自由化に乗り出すべきという主張です。モスクワで物々交換の為の市が乱立しているので通貨の供給不足もあったに違いないとも推定しています。

Miller氏はまずはインフレの原因を政府による通貨の過剰供給に置きます。東欧諸国への援助が必要ではなくなったことや軍事費の削減が助けにはなりましたが、ソヴィエト時代の負債や石油価格の低迷、経済や政治の混乱によって租税の徴収システムが機能しなくなっていたことからロシアの負債は拡大を続けていました。しかしエリツィン政権は増税には踏み切れず、輪転機を回し続けることを選択しています。国債も乱発していて、これが結局はロシア危機を引き起こすことになります。国民生活についてはGDPの低下(1992年のGDPは前年比14.5%減)は軍事費を削った結果軍産複合体の生産が低下したためで数字から想像できるほどは国民生活には影響が及んでいないと指摘します。市場経済にいち早く対応した人、コネや権限を生かして政府から捨て値で資産を獲得した人が巨万の富を手に入れる一方で、そうでないものは貧しくなっていきますが、同時に西側からの物品の流入で電化製品や車の所有が増えるなど自由化の影響は一概には捉えきれない面があります。一般の人々も特にサービス業で自営に乗り出す人も多く出てきます。生産の低下にしても、そもそもがソヴィエト時代から商品の不足には慣れている人たちばかりですし、西側の感覚で考えるより意外と大丈夫だったのかも知れません。

通貨供給に関してはMedvedev氏の言うように不足が生じていたなら価格はデフレ方向に向かうでしょうから、Miller氏の方が正しいと思います。

エリツィンの再選に関しても意見が分かれています。Medvedev氏は対立候補の失速と新興富裕層と結びついたエリツィンの広告攻勢を再選の原因に挙げます。Miller氏はエリツィンが再選前に繰り返した内閣改造によってこれまでのような急進的な改革路線を完全に捨て去ったことと経済の自由化に対応しつつあった人々が改革の逆転を望まなかったことをエリツィンの勝因に挙げます。1993年の議会砲撃事件に関しても、Medvedev氏にとっては議会派は民主主義の代弁者ですが、Miller氏はエリツィン率いる急進派と既得権益の代弁者たる議会派の争いとしていて温度差がかなりあります。

悪化したままの経済状態と急速に力を増した新興富裕層の浸食によってエリツィン政権はその後レームダックに陥り、エリツィンは三期目をあきらめ急遽プーチンを後継に指定し政治家を引退します。

プーチンは政府の財政を安定させることに尽力します。KGBや自分の人脈から要所に人材を配置することで、地方自治体の権限を弱め、中央集権化、租税システムの整備や歳出の削減を進めます。石油価格の上昇などもあってロシア危機後のロシア経済の復活に成功します。人々がエリツィン時代の放漫財政で痛い目を見ていたこともプーチンの改革には大きく影響しました。

プーチンの経済政策は中央政府の権威の強化、権力と財力の確保を第一目標にします。次に人々の不満を高めないように失業率を抑え、満足できる程度の年金を支給することです。最後に上記の2つを侵害しない範囲で経済の発展を目指す。というものだそうです。かつてプーチンと交代で大統領になり、一時期はプーチンの後継者とも目されたメドヴェージェフは何よりも経済の近代化、改革を優先する傾向にあるので、この点でプーチンと政策の優先順位に違いがあります。

ロシアといえば、汚職がつとに有名ですが、一番目の目標のために、天然ガスや石油など外貨獲得源でもあり、ロシアの外交とも大きな関わりのある分野はプーチンの個人的な人脈でがっちり固めています。二番目の目標のために、大企業がリストラを発表すると露骨に政府から嫌な顔をされます。反面、小売りやサービス分野では上記の二項目とはあまり関わりがないので、西側の技術なども取り入れて、非常に伸びているそうです。

さて、プーチンによって経済は安定したとはいえ、今のロシアは相変わらず天然ガスと石油頼みの中進国です。大きいのは、かつての超大国としてのプライドと経済力に見合わない軍事力だけ。トランプ以後アメリカの警戒がロシアから中国へ移ったのはロシアにとっては朗報ですが、そのプーチンも今や66才となり、2024年に第4代大統領の任期が切れるころには70台に入っています。もし、プーチンが政治家を引退するならロシアはどう変貌するのか、特に個人的な人脈で固めまくった天然ガス・石油企業と政府の関係がどう変わっていくのか、興味が尽きません。

そのドラマを観るためには、まずはプーチンよりも長生きしなければなりません。健康に気を付けて、日々を過ごしたいと思います。

 

 

 

ソビエト連邦の崩壊

個人的にロシアという国はかなり好きです。といっても、極端に寒い上に娯楽も少なそうで、プーチン大統領の悪口を言ったら投獄されてしまいそうな所に住んでみたいとかいうわけではありません。西ヨーロッパ諸国やアメリカのように人権やら何やら説教しながら裏でこそこそ陰謀を巡らしているのに比べて、ストレートに国益を追求する姿勢がいつも新鮮な驚きをもたらしてくれるといった程度のものです。

さて、ソビエト連邦が崩壊した当時、私は学生をやっていました。連日、報道でポーランドワレサ氏やソビエトゴルバチョフ書記長の動向が伝えられ、ついにはベルリンの壁が崩されたまで位は覚えているのですが、結局あれは何だったんだろうと思うと今一つしっくりくるものがありません。言うまでもなく、世界初の社会主義革命に始まるソビエト連邦はその存在自体が人類史上に残る巨大な実験でした。その崩壊からほぼ30年がたち、徐々に歴史として扱っている本も出てきました。以下敬称略します。

Vladislav M. Zubok, A Failed Empire

スターリンからゴルバチョフまでの通史です。ソビエトの書記長という立場がどういうものなのかが何となく判る本です。ソビエトの書記長というと絶対権力者のようなイメージを抱いていたのですが全然そんなことはなさそうです。個人崇拝プラス粛清という最強の手段を使えたスターリン以降、書記長は党の官僚機構のより広範な支持を得てなるものとなります。ただ、官僚はそれぞれに既得権益を持っていますから、それらを出来るだけ刺激しないことが書記長として選ばれ、長くやっていくコツになります。正直こんなんだったら民主主義政体の大統領や首相のほうがよほど強権を振るえます。選挙に勝つということは権力に正当性を与えることなんだと改めて納得したりしました。漫画「ウォッカ・タイム」でおなじみのチェルネンコも登場しますが、確かにこれはからかわれても仕方がない感じだったり、色々と面白エピソードが満載です。

 

Michael Dobbs, Down With Big Brother

ポーランドなど東欧諸国の混乱から始まってソビエト崩壊に至る過程を追った本です。著者がジャーナリストなので、事件の描写が鮮明でまるでその場にいたかのような臨場感があります。読んでいてわくわくしますが、それぞれの事件の背景描写やなぜその事件が起こるに至ったかが弱いので、読んだ後で結局なんだったんだろうってなります。報道や現場中継を整理して読んでいる感じです。

 

Chris Miller, The Struggle to Save the Soviet Economy

ソビエト崩壊は党組織や経済の問題だったということがよく判る本です。ソビエトの崩壊では何かと悪役にされることも多いゴルバチョフですが彼に対する最高の弁明でもあります。

ちょっと不調に陥っていた経済を改革するために始めたことが何が何でも既得権益を維持拡大しようとする官僚機構によって手詰まりどころか完全に逆効果になり、仕方がないので政治改革や外圧によって事態の打開を図るもあっという間に手におえない事態になり最後には孤立無援で周りは敵だらけという救えない話です。他の本ではゴルバチョフは経済改革には無能で、やったことと言えば完全に失敗したアルコール販売の禁止位で価格統制の撤廃すらしようとしなかったとなっているのですが、ゴルバチョフだって色々やろうとはしたのです。中国の改革開放路線も研究しました。しかし、官僚機構は頑強に抵抗します。農業の生産効率を上げるには集団農場を廃止し、自由化を進めるべきだと言えば、官僚の方は、いやいや農業の近代化が遅れているのが原因だから補助金をよこせと返します。自らの権力基盤の弱さもあって、補助金と引き換えに自由化を進めようとすれば、自由化の方は現場の下級官僚が抵抗して実施に至らないし、補助金はといえばそれで購入された新品のトラクターが使われもせず倉庫に積み上がっていくばかりです。万事がこんな調子なので赤字は増える一方でむしろ何もしない方が良かったとさえいえる状況になります。

今度は官僚機構ではなく国民に期待をかけ、情報公開を進めて自主的な改革を促そうとしたらスターリン時代の悪事が国民に知れ渡り、党に対する反対運動も激化、統治機構自体が能力を低下させ、いよいよもって何もできない状態になってしまいます。外交では良いことばかり言っていた西欧諸国も肝心の時にはもちろん助力はしてくれず、むしろいい気味だと言わんばかり。スターリン毛沢東ならこうなる前に大粛清が始まっているところでしょうが、歴史上そういうことが出来る人は限られます。

鄧小平による中国の経済改革と比べられることの多いゴルバチョフの経済改革ですが鄧小平にはゴルバチョフにない大きな利点がありました。鄧小平が改革開放路線を始めた当時、中国の官僚機構は毛沢東文化大革命により大きく弱体化していました。反面、ゴルバチョフにはブレジネフの統治と次の病人二人(アンドロポフは改革を始めようとはしたのですが途中で病気で亡くなります)によって長年育まれた官僚機構がそのまま残されていました。日本の戦後の経済改革の話も出てくるのですが、思えばあれも敗戦のショックとその後の占領による官僚機構の弱体化がなければなしえない出来事ではなかったのかという気になります。それにしても、悲惨で醜いばかりで何も良いことがないと思われていた文化大革命にこんな利点があったとは驚きました。

この本を読んでいた時は、日本大学の運動部の不祥事などもあって、外圧の掛からない組織というものは身内の論理によって固められてしまうものだなと思いました。誰が偉いの偉くないのとか面倒事は避けようとか、既得権益は絶対に手放さないとか。資本主義経済の利点というのも利潤や効率などの外部の論理による圧力がかかること、あまりにひどい組織には市場から退場していただく仕組みがあることにもあるのでしょう。計画経済においてはその手の外圧は働きません。ならばと粛清によって言うことをきかせようとしたのがスターリンでした。資本主義経済だからといって非効率がなくなるわけではありません。官僚機構に留まらず、競争の激しくない事業分野の会社や大学などから町内会に至るまで、身内の論理によって非合理性や非効率性に侵されている組織はいくらでもありそうです。